『ユリス』三章

 翌日の昼、非の打ち所ない八月の空に灼かれながら、ハンスは白い道を歩いていた。塚本ヤスエの家へ行くところなのだ。

 足取りは軽い。楽しげに見えるほど。実際、すこし浮かれているのだ。二本の脚は陽気で屈託がなく、のんき者の胴体を軽々と運んでおり、胴体としても脚のやり方に特に異論はないようで胸弾ませているし、腕にいたってはさらにお調子者で、戒めの拳を握っていなかったらアホウドリみたいに滑稽な羽撃きをさえやりかねないほど。ただ、頭部だけは少し困惑していた。なぜなら、塚本ヤスエに呼びつけられて会いに行くところだという事実を考えると、この浮かれ様はかなり妙なことなのだ。塚本ヤスエが友好的であったためしはなく、むしろ一方的に嫌悪の垣根を巡らして対応するのが常であったし、ときにはその垣根の隙間から鋭い針の意地悪で突っ突くことさえあったではないか。そもそも「行方不明のあたしをどうにかしろ」なんていう馬鹿げた要求は新手の意地悪ではないのか。

 それでも、ああ、この風景の優しげな表情はどうしたことだ。それに、ああ、この空! 長年暮した斜面の家が、四季の移ろいにまるで無関係に、一貫して陰気な雲と空をその屋根の上に戴き、刺々しい風景に取り巻かれて孤立しているのに較べて、そこからほんの一息歩いただけで、この変り様。多種多様な表情を見せている畑たちの、変化に富んだ心地よい配置、小さな森、木立に半ば顔を隠して照れ笑いをする家、事物のすべてが愛敬と優しさのために仄かな丸みを帯びて見え、それらが激しい陽射しを照り返す仕方もおっとりして可愛らしく、人間の手によって丹精された土と作物が発散する喜びの粒子が空気に輝きと香しさを溢れさせているのだった。

 世界がこんなにも官能に満ち溢れているなんて!

 通い慣れた白い道がはじめて見せてくれた風景に、ハンスは酔い痴れた。浮かれちゃいけない理由なんて、どこにもないのだ。塚本さんだって根っから悪人てわけじゃない、否そもそも悪人なんかじゃない。きのうのぼくはどうかしていたんだ、不意をつかれたからといって、悪夢のような呼び鈴を鳴らされたからといって、塚本さんをまるで怪物かなにかのように思い込むなんて。確かに無愛想でちょっと意地悪なところもあって偏屈で、たぶん三十五歳か三十六歳であろう年齢よりもずっと老け込んで険しい御婦人ではあり、おまけに粗野で乱暴で短気でもあるけれど、怪物なんかじゃないのだ。それに、ぼく自身の人生を穴あきの小舟かなんかだと思ったのは甚だしい間違いなのだ。なにしろ、今更思いつくのも間が抜けているけど、なんとぼくは自由の身の上! ゲルハルトさんが死んでしまったあの日から、なんとぼくは自由の身の上! 浮かれちゃいけない理由なんて、ほんとうにどこにもないんだ。

 ハンスは戒めの拳を開いた。とたんに腕は不恰好な羽撃きを開始し、脚は八方破れの跳躍を混ぜて走り出した。ハンスは鼓舞するように右手を見た。五本の指をすべて開いて無邪気にひらひらしているのだった。同じ愛情を以て左手を見た。同じようにひらひらはしゃいでいた。それで、浮かれちゃいけない理由に思い当たった。今日は手紙を持っていない。 ぼくは、きょう、届けるべき手紙を、持っていない。


 はじめて手紙の使いをしたのは六歳のころだった。

 薄青い封筒と紙切れを渡してゲルハルトが言った。この地図に記された家へ行き、その家の一人娘である塚本ヤスエにこの手紙を渡してこいと。渡すのは塚本ヤスエ――それは、ちっちゃな御婦人なのだぞ――本人でなければならず、本人以外の人間に渡してはならない、たとえそれが塚本ヤスエの母あるいは父であったとしても、と。

 それからの三十分、はじめての外出とはじめて他人と言葉を交わすための特訓が行なわれたが、概ねは言うべきことの復唱に費やされた。「塚本ヤスエさんはおられますでしょうか」「わたくしは、斜面の家から使いにまいりましたものでございます」「わたくしの主人はゲルハルト・パンネンシュティールでございます」云々。

 ゲルハルトは声をひそめて、さらに言った。その声は浮き浮きした調子を含んでおり、それがハンスをたじろがせたのだったが、「必ず、必ず返事をもらってくるのだぞ」と。 さらにこうも言った。返事は紙に書いたものでも口頭でもどちらでもよいが、口頭の場合は一言一句間違わず憶えて、その口調も雰囲気もあまさず再現して俺に伝えよ。紙に書かれた返事であれば、決してお前なんぞが盗み読むことはならん、と。

 地図に記された家は、幼児の足には遠い道程であった。不安と焦燥と紆余曲折の果てに辿り着いたころには疲労困憊して足も舌も縺れ、道々練習してきた口上も少々草臥れていた。

「ヌカドロ、ヤセーサンハ、ロラレマルデシャー」

 曇り硝子の引き戸を開けて、驚きと憐憫の表情を浮かべた女が塚本ヤスエ本人であるか否か判断がつきかねた。

「ヌカドロヤセーサンハロラレマルデシャー」

 引き戸がズルズルと間抜けな音を引きずって、ためらいがちに閉められたのち、しばらくは奥の方のどこかでガサゴソ、ガサゴソと不穏な話し声がしたが、思いがけない勢いで再び引き戸が開いたとき、そこに立っているのが〈ちっちゃな御婦人〉塚本ヤスエ本人であることを直感した。

「ヌカドロヤセーサンデシャー」

「ヌカドロじゃないよ塚本、ヤセーじゃないよヤスエだよ。塚本ヤスエは、あたし」

 残りの口上をすべて忘れ去り、ハンスは薄青の封筒を差し出した。十三歳の〈ちっちゃな御婦人〉塚本ヤスエはすぐには受け取らず、柱に寄りかかったまましばらくは哀れな様子の子供を見下ろしていたが、言った。「あんた、あすこの」と、横柄にしゃくった顎は漠然とながら斜面の家の方角を指し示して、「あすこの変な家の子だろ。変な家で、物凄く変な親爺のいる、さ。そうだろ? そうだろ?」

「ワタクシのゴシュ、……ゲルハルト」絶句した。迂闊にもパンネンシュティールという名は霧の彼方であった。

 数秒間は、差し出された薄青い封筒を介して視線の応酬が行なわれたが、塚本ヤスエがついに封筒を引ったくった。乱暴に封を破って手紙を読んだ、くり返しくり返し。

 ハンスは目的の半ばに到達した安堵でぼんやり相手の姿を眺めた。これまでに遭遇した数少ない人物のなかでは飛び抜けて好ましい相手のように見えた。刺のある眼差しが手紙の上に半ば伏せられて威力を失っている今は尚更、硬質でありながら滑らかにも見える皮膚を美しいと感じた。六歳の己が皮膚に似ていると感じた。ある種の親しみが込み上げもした結果、ハンスはかなり落ち着きを取り戻した。

 手紙から目を上げた塚本ヤスエは奇妙な顔つきをしていた。混乱と怒りと恥ずかしさの入り交じった表情は爆発寸前であることを告げていた。

 ハンスは大急ぎで最後の仕事に取りかかった。
「返事をくださいますよう。必ず、必ず返事をいただいてくるよう言われました」
 が、ハンスの鼻先で、ひび割れるような音とともに引き戸は閉じられた。
 その場にしゃがみこんで日暮れちかくまで待ったが、再び引き戸が開かれることはなく、返事はもらえなかった。

 これに懲りることなくゲルハルトは手紙を書き続け、ハンスは届け続けた。三日に一度、あるいは毎日。一週間あいたかとおもえば日に二度ということもあり、二十年間途絶えることなく続いたが返事はもらえなかった、七日前ゲルハルトが死亡した日を除いては。

 手紙を、届けるべき手紙を、きょうは、持っていない。身が軽いのではない、まして心が浮き浮きと軽いのでもない、存在が軽いのだ。届けるべき手紙を持ってないぼくは、存在が、軽いのだ。

 思い当ったとたん、アホウドリの翼はだらりと垂れた二本の腕となり、すぐさま引き返して腐りかけた小部屋に閉じこもりたい衝動と、その場に蹲りたい衝動に、同時に襲われた。が、時既に遅く、回れ右をするにもしゃがみこむにもそこは相応しい場所ではなかった。なぜなら目の前の茫洋と開けた土地の向うには妙に平べったい塚本家が見えており、その内部のどこかから真直ぐに強い視線が延びてハンスの胸ぐらを引っ掴んでいたからだ。


 塚本ヤスエの家はごくあたりまえの農家の構えで、四羽のニワトリが常に歩きまわっている庭は各種の農作業のために丹念に踏み固められて殺風景そのものであり、生け垣も柵も小さな潅木一本、すなわちここからは塚本家であると主張する何物も存在しないために、低い雑草の繁る平らな土地からなしくずしに塚本家になっており、障子も襖もガラス戸も、開放可能なものをすべて開放して、印象としては、数本の柱とわずかな壁とが屋根を支えているのみ。風も虫も他人の視線も何もかもがなんの気兼ねもなく通り抜け、あけっぴろげという点ではこの集落随一であり、人間の屈託という屈託を、通り抜ける風に乗せ、見る間に飛散させてしまうかと思えるのだったが、この家に住む二人の老人は長年の屈託のせいで漬物石並みに重いのだった。

 今しも一羽のアホウドリが陽光に輝く外の世界をこの家に向かってバタバタとやってくるのを見て、漬物石の片方が呟いた。
「小僧め、まだ来やがるか」
 もう一方の漬物石が不機嫌に応じた。
「あれはもう小僧じゃないじゃないかね」
「おまえ、あいつに、なんか言うんじゃないぞ」
「言いますともさ。言ってやりますとも今日という今日は」
「おまえがなんか言っても埒はあかねぇ」
 と、漬物石1が嘲ら笑った。漬物石2も負けずにやりかえした。
「あーたこそ、自分の娘にだってまともにものを言ったことはないじゃないかね」
「それとこれは話が違わ」
 それきり二人は押し黙り、アホウドリの馬鹿げた羽撃きを凝視した。

 あれがまだ小僧であった頃、二人がまだ漬物石なんかでなく快活な農業経営者と働き者の妻であった頃、そして一人娘の頬っぺたがまだ薔薇色のふくらみであった頃、集落きっての有望な若者と嘱目された沙汰家の次男坊がこの家にやってきて一人娘との結婚を申し入れたのであった。親の贔屓目で見ても一人娘はとびきり美しいわけではなく、また、さほど賢いとも思われず、どちらかといえばぶっきらぼうな物言いや、時折り見せる乱暴な仕草を心配していたくらいのものだったが、沙汰家の次男坊が気に入ってくれたのならもう何も問題はないと、娘の数々の欠点に「個性的」という便利な言葉をくっつけて脇へ押しやり、あとは有頂天で婚礼の支度のあれこれに嬉しい思案をしたのであった。家から少し離れたところに持っていた畑地に沙汰家の次男坊が興味を示したときも、有頂天の最中であったから只同然に譲ったのだ、どのみち娘のものになる土地だと思って。

 この求婚に当人の娘はウンもスンも言わなかったが、それは若い娘にありがちな恥じらいであろうと勝手に思い込み、少なくともイヤとは言わないんだからいいんじゃないかと語らって、二年が経ち、五年が過ぎ、婚礼のために調えつつあった品々は次第に色褪せて風化の道をたどり、沙汰家の次男坊は待ち草臥れたか余所の女と所帯を持ってしまった。彼とは東京の大学でクラスメートだったんです、この村は空気がきれいで大好きになりましたなどと面白くもないことを清楚な雰囲気を撒き散らしながら並べたてる女を伴って、いけしゃあしゃあと挨拶にやってきたときは驚愕した。以来、快活な農業経営者と働き者の妻は次第に硬化し、不機嫌な二つの漬物石となったのだ。

 そもそも、と漬物石たちは考えたのだった、一人娘があのように喜ばしい求婚にまるで興味を示さず明瞭な返事をすることもなく、ずるずるとなしくずしに消滅するにまかせたのは何故か。たぶん小僧がせっせと運んでくる手紙ゆえであろう。厭らしくも薄青い封筒の手紙はおそらくあのおひとが書いているんだろうが、一人娘が十三歳の春からずっと止むことなく届き続けており、何が書いてあるのか問いただしても娘はフンと鼻を鳴らすばかりで、どころか封筒に手を伸ばしただけで物凄い剣幕で怒りだす始末だ。実に怪しげ胡乱なことだ。一方で沙汰家の次男坊は集落の人々の希望通りに新進気鋭の農業指導者の役回りを嬉々として引き受け、自分の畑で洒落た作物を育てるかたわら今日は誰それさんちの種付けの指導であるとか明日は青年会で農業の将来について講話をせねばの大忙しで、国産の軽四輪ですよ気取らない車ですよと朴訥そうな照れ顔で真っ赤なその軽四輪を少々気取って乗り回す。嫁は嫁で相も変らず強引なほどに清楚さを撒き散らしながら、忙しい夫を助ける妻の役を破綻なくこなし、あら塚本のおばさんご精が出ますねだのマア今朝はなんてすがすがしいんでしょなどのしらじらしくも月並みな挨拶一辺倒で近所付き合いをやり倒しているわりには、大都会とやらからこのように侘しい土地に嫁に来て幾ん日もつかねと陰口たたいていた老人どもを農村における新式の嫁はああでなくちゃならんと宗旨替えさせるほどこの集落にしっかり定着してしまい、ときに目撃される例の真っ赤っかで気取らない軽四輪とやらを颯爽と運転して夫をあっちこっちと運んでいる姿は、まだ見ぬ大都会に憧れの眼差しを向けるばかりであった若い娘たちの目をぐいとこの土地に引き戻し、沙汰さんちの砂子さんみたいになりたいと堅実な夢に鞍替えさせる効果もあって糞いまいましいかぎりだ。

 それからさらに数年が過ぎ、我が娘は独り身のまま勤めに出るでもなく稼業を手伝うでもなく勝手気儘に暮らして三十六になり、たまには親子の会話をと水を向けても相変わらず乱暴な物言いでわけの判らない言葉の断片を投げて寄越すが関の山。何を考えているやら、まったく理解不能の人間になってしまった。

 それもこれも小僧が運んでくる手紙のせいだ、そうだ、そうに決まっている。と、なんら根拠があるわけでもなかったが、漬物石たちはそう決めつけていた。

 その小僧は今、唐突に馬鹿げた羽撃きをやめ、よろめきながら歩いてくる。


 それにしても納屋はどこに? ハンスは新たな困惑にうろたえた。昨日、塚本ヤスエさんが言ったではないか、ウチは駄目だ、父ちゃんと母ちゃんがやかましいことを言うからね、納屋だよ納屋、と。茫洋たる塚本家のあちこちに、焦点の定まらぬ目をうろつかせても、納屋らしきものは見えなかった。のみならず、あまりに開放されきった家屋であったから、勢いハンスの視線は家屋を通り抜けて遥か彼方の小さな森や無関係な他人の畑やらを彷徨いがちであった。特に、開け放たれた間口二間の玄関からは遠く朧ろな山の稜線が非現実的なまでに美しく、しかし無理に視線を戻せば、どうやら塚本家の裏庭に属しているらしい箇所に数えきれない喇叭型の花が咲き乱れ、降り注ぐ陽光を灼熱の色に照り返して輝いていた。さらにさらに視線を戻せば、灼熱の裏庭を豪華な背景として、明瞭な三つの影が見て取れた。そのひとつはぎこちなく首を振る小柄な扇風機であり、残るふたつはこの家の住人、塚本ヤスエの父と母が向かい合って座し、接近しつつあるハンスを凝視しているらしい影であった。ふたりの間には卓袱台が置かれ、その上には素麺の泳ぐガラス鉢が花の色を映して煌めいており、塚本・父の右手に持たれた箸は素麺の幾筋かを掬い上げる途中で止まったままであった。

 影たちの表情が明らかになるよりまえに、叫び声が発せられた。
「おらんよ! おらんおらん!」塚本・父の声であった。

 玄関に辿り着くまでにはまだ暫らくの歩行が必要であり、しかしながら家屋の中なる人物と自分との眼差しは既に交わってしまっていたから、どの地点で来意を告げるのが適当であるか迷いながらだらだらと前進していたハンスにとって、この叫びはそれなりに有意義なきっかけとなり、口を開きかけたが、それより早く塚本・母が立ち上がり、がしかしすぐさま転倒した。それは、塚本・父が卓袱台の下から足払いを仕掛けたためであったけれど、妻は無様な腹這いのまま、それでも言うだけのことは言った。
「ヤッちゃんは四色畑におりますよ」

 その言葉も終わらぬうち、塚本・父が爆音とともに大量の素麺を啜り上げ、あんまりな勢いだったせいで激しく咽せた。塚本・母は嘲るように口の端をひん曲げて、苦しげに咳き込む夫を一瞥したのち、当分は邪魔をすることはできまいと判断したのであろう、粘りつくように這いずって敷居際へ到達するとぺたりと座り、落ち着き払って喋りはじめた。「ヤッちゃんは四色畑におりますよ。四色畑を知ってなさる? 知りなさらんの? ここから少し道を戻って右の方へだらだら坂をずーっと下っていきますとね左手に茶畑がありますんでね茶畑の切れるとこまで行ってまた右へ下りると見えてきますよ四色畑が。あれはもとウチの畑でしたが沙汰さんに売っ払いましてね、只同然で、ねえ父ちゃん?」と振り向いたが、夫は既に卓袱台から撤退して小柄な扇風機を抱き締めんばかりに接近して胡坐をかき、体全体を激しく揺すっており、それはこれからはじまるであろう妻ののべたらなお喋りを一言も耳に入れないための頑なな姿勢と見て取れ、瞬時にそうと悟った塚本・母は続けた。

「ええもう只同然で。沙汰さんは、沙汰さんとこの次男坊の達人さんのことですがね、あの人はヤッちゃんと一緒になると決まってましたんで、それであの畑を譲ったんでしたがねぇ。それがまあ、達人さんは違うひとと所帯をもってヤッちゃんは三十六になってしまいましたよ。あんたはおいくつにおなんなさるの? 二十六? はぁ二十六といえばヤッちゃんも二十六のときがありましたっけがもう三十六になりまして」

 論旨は空回りの兆しがあった。塚本・母はうろたえて、言うべきことの数々を頭の中で追い求めたが、それらはニワトリみたいにジグザグに走り回って逃れ、そもそもそれらが言うべきことなのかどうか見極めることもできない有様だった。一羽の尾羽根をひっつかんで、そうだ、これだ、手紙のことを言わなければと勢い込んでもみたが、目の前にぼんやりした表情で立っている若者は配達人に過ぎず手紙の書き手はついこないだ死んでしまったはずだと思い至り、なにより目の前の若者は問題となる手紙を携帯していなかったから、塚本・母は失望と混乱の中から貧しくもわずかな言葉を拾い出して喋るほかはなかった。「四色畑を知ってなさる? 知りなさらんの? あれ元はウチの畑でしたが沙汰さんは四つに仕切って別々のものを植えつけてるもんで四色畑と呼んでいますがね、ウチじゃあんなせせこましいことはしておりませんでしたよ、ねえ父ちゃん」と救いを求める眼差しを背後に送ったが、夫はいまだ扇風機を抱き締めて頑なな背中を丸めており、のみならず首振りを阻止されている扇風機がギチギチギチと抵抗の声を上げ続けるのも無視して、残りわずかな毛髪を風が真直ぐに吹き上げるままにしている姿は情けないことこと上なく、塚本・母はチェッと音高く舌打ちして続けた。

「四色畑を知ってなさる? 知りなさらんの? ここへ来る道を少し戻って右にずーっと行きまして左の茶畑の切れるあたりで右に下りていくと見えますですよ、四色だからすぐわかりますでしょう。四色畑の真ん中には小屋がありますよ。ヤッちゃんが産まれたとき父ちゃんが造ったもんです。小屋の中にヤッちゃんを寝かしてあたしらふたりで野良仕事ができるように父ちゃんが考えたもんで。ヤッちゃんはよく泣きましたがあたしがちょっと行って乳を飲ませますとまたすぐ寝るんで、あたしたちは野良仕事に精出すことができて重宝な小屋でしたが、ヤッちゃんはあれを納屋と呼びます。あれは小屋なんで、納屋じゃありませんよ、うちの裏手にあるのが納屋でして」と右手をひらりと翻して納屋があると思しき方を指し示すバスガイドめいた仕草も、飛散した論旨を引き戻す役には立たないのであった。

「四色畑を知ってなさる? 知りなさらんの? 真ん中に小さな小屋があるんですぐわかりますでしょう。ヤッちゃんはあの小屋によく行きますよ。あの畑は沙汰さんとこの達人さんに只同然で売っ払ったんだからもううちの地所じゃないと何度言聞かせても、畑は売っ払ったかもしれんが納屋まで売ったわけじゃあるまいと平気な顔して言いまして、行くのをやめないんで困りますよ。ヤッちゃんは小屋に南京錠まで掛けてね、自分しか入れないようにしております。達人さんもお困りでしょう。達人さんのお嫁さんの砂子さんもお嫌でしょうしね。でもまあ、うちのほうへ苦情を言いに来られたことはいっぺんもありませんがね、そりゃまぁ」と、ここからは俯き加減で小声になり「達人さんはあたしらやヤッちゃんには顔向けできないようなことをなすったんで苦情を言いたくも言えるわけはないですが」少しばかり良心の呵責を感じた。めでたかるべき結婚話を反古にしたのは、果たして沙汰達人なのか我が娘なのか、いまひとつ判然としないのであった。

「ヤッちゃんは納屋と呼びますが、あれは小屋で、納屋じゃありません。うちの裏手にあるのが納屋ですよ」と、気を取り直したつもりだったが、しかしなんという空回りであろうか。夫の言うのは正しかったのだ、埒はあかねぇ、のであった。

「三十六にもなるにヤッちゃんはものを知らんで困りますよ、畑仕事のことも親のことも他人のことも何も」と言うと、唐突に畳を這って卓袱台に戻った。夫は既に扇風機を手放しており、突っ立った髪の毛もそのままに、卓袱台を前にして悄然と首を垂れていた。ふたりは何事もなかったかの如く素麺に箸を延ばした。ふたりの間には、互いに反目すべきでなかったとの後悔が滲み出していた。長い年月に蓄積した苦悩の重石をぶちまけるべき相手は、おそらく永遠の彼方へ逃れ去ったであろうけれど、もしも万が一そういう相手が現われたならば、自分たちは寄り添って共同戦線を張るべきなのだと知っていた。少なくとも、落胆と後悔の人生において、残り少ない幸福を分け合って生きるべきなのだと知っていた。その気持ちは、残り三本の素麺を譲り合う無言の仕種によって申し分なく表現されていたが、それでは足りずに素麺鉢の陰で握り合わされた左手は、灼熱の花咲き乱れる裏庭を背景に感動的な場面を出現させていた。

 この時点でハンスはまったく忘れ去られていたから、すみやかに四色畑に向かうことにしたのであった。

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