『ユリス』五章

 桃の里という名の山間の集落にあって、ゲルハルトは極めて異質な存在であった。そもそもその名で呼ばれることは決してなく、稀に集落の片隅で人の口にのぼる場合は「あのおひと」と溜め息めいた囁き声で言われるような男であった。

 この男の細部は常に黒っぽい靄の向う側にあって判然とせず、それはしかし、この男に何かしら不可思議な力があった証というわけではなく、ただ、こっちを見るなという濁った眼光が、見ようとする者の意志を挫き、また、見ようとする者にしてもそれ程の熱意があるわけでもなかったから、結果、どことなく容貌怪異、なんとなく胡乱な風体というぼんやりとした印象が根づいてしまったのだ。

 しかし、ゲルハルトの異質さは、怪しげな容貌のせいでも胡乱な風体のせいでもなく、風変わりな生業のためであった。敢えて言葉にすれば、極めて消極的な魔術師というようなものであったが、当人はおろか集落の誰一人この仕事に名を与えたりはしなかったから、話題になるにしても、「こないだあのおひとがウチの前に来なすってなァ」と嘆息気味に言う者があれば、相手は「はァ、それはそれは」とのみ応じるのが常であり、「はァ、それはそれは」のあとには〔弱り目に祟り目でしたなァ〕という意味合いが籠められた沈黙が続くのだが、それは決して発音されることはないのであった。

 ゲルハルトの仕事の最も重要な部分、それは集落のどこかの家で起きた、あるいは起こりつつある厄介事の気配を嗅ぎつけること。ほとんど書斎に籠りっきりにもかかわらず桃の里集落のことに関しては実に事情通であり、色恋の一悶着、病人、商売上の諍い、縁談のいざこざと、ありとあらゆる厄介事を、九十戸に満たない集落の誰よりも早く嗅ぎつけるのだ。仕事で外出する際は、干涸びた大量の毛髪を黒い鍔広の帽子に押し込み、季節を問わず真っ黒な、形も定かでない外套らしきものを身に纏い、影のごとく勝手口を忍び出で、ヤモリに似た用心深さで家の外壁に沿って進み、玄関脇から《紫の煙の小径》へ、実に陰鬱な様子で歩んでゆくのだ。無論《紫の煙の小径》を歩くに相応しく、特別に調合した紙巻き煙草を唇の端にぶら下げて。

 馬鹿げた私道の曲線をゲルハルトが愚直なまでに忠実に辿り歩くのは、あくまでこれから行く仕事先で起こり得るあれこれについて思案するためであったが、この様子を少し離れた場所から眺めれば、何遮るものとてない斜面を行きつ戻りつする鬱病のカラスにしか見えず、滑稽な印象を免れなかったろうが、この辺りにはそうした客観的かつ意地の悪い視線を持った住人はいなかったから、辛うじて物笑いにならずにすんでいた。

 未舗装の村道に出るや、鬱病のカラスはその体型と装いにまるで不釣り合いな敏捷さで疾走しはじめ、その姿を見た者は集落のどこかの家で何かしら厄介事が出来たらしいと、はじめて知るのだ。あれまァ、あのおひとが走っていなさるよ、と問題の家に同情を示す嘆息を洩らし、不意にそれが自分の家じゃないかしらんと不安になり、また、《あのおひと》が走り去った方角を透かし見て、どうやら我が家じゃないらしい、と今度は安堵の嘆息を吐き、再び同情の眼差しになって、今日は何処の家じゃやら、などとつぶやくのだ。

 疾走する《あのおひと》はといえば、問題の家の、玄関からやや離れた塀ぎわ辺りで息も切らさずに立ち止まり、それが家より風上であることをそれとなく確認してから一服点ける。煙はのどかに流れてゆき、やがてこの家の主人か、あるいは家人の誰かが特徴的に甘い匂いを嗅ぎ、《あのおひと》がやって来たことを知ると、箪笥の引き出しに常に用意されている半紙に、多すぎも少なすぎもしない紙幣を小さく包み、外へ出る。明日の農作業の参考にするために空模様を見ているかのような、あるいは少々帰宅の遅れている子供の姿を求めているかのような何気ない様子で、一旦は《あのおひと》の立っている場所と反対の方角へ五六歩さまよい、それから同じ何気なさで戻って来て《あのおひと》の前を通り過ぎるのだが、その際に見事な手つきで小さな包みを渡すのだ。互いの指が電光石火の魔法にかかったかのごとき絶妙さで受け渡しを完了すると、渡し手はさらなる何気なさを装って五六歩行き過ぎたのち、空模様に小さく舌打ちしたり、あるいは子供の名を呼ばわってみたりなどして家の中に入って行く。指の技も演技も共に年寄りであるほど習熟している傾向にあるが、若者の未熟な指であっても《あのおひと》の指の技に助けられてどうにか無様なことにならずに済んだ。ばかりでなく、若いうちにこの役を経験した者は、指が触れ合う瞬間に何か言葉では言えないものを感得し、手だれの年寄りたちに負けないほどの境地に至る。自信に満ちあふれた若者は、次にこの役をやる時はああもしようこうもしようと胸の内で工夫を凝らし心待ちにするのだが、その時は身内に厄介事が出来た時なのだと思い至って暗然とするのであった。ことほどさように《あのおひと》の指は、いや《あのおひと》そのものが、教師という側面においては天才を有していたのだ。

 さて、小さな包みを無事渡し終えて一旦家の中へ戻った主人あるいは家人は、茹で玉子をこしらえる程度の時間をおいてから、一枚の新たな半紙を手に再び外へ出る。《あのおひと》の姿はもうそこにはなく、地面には靴で踏み消された煙草の吸い殻が一本ないしは二本残されている。他人の目がないか辺りをそれとなく見渡したのち、吸い殻を丁寧に半紙に包む。紙幣の包みと交換に入手した吸い殻の包みは、箪笥の引き出しの奥深く、あるいは仏壇の位牌の裏、台所の煤けた神棚の奥というような、滅多に見ることはないが、かといって決しておろそかでない場所に置かれて、この一連の小さな儀式は終わるのだった。だが、しかし、儀式を終えたからといって厄介事が消えるわけではなかった。病人はいっかな快方に向わず、縁談はついには破談になり、商売は相変わらず左前のままであったりするのだ。では何故《あのおひと》に金を包むのであるか? ただの習慣か? ただの習慣なのだ。無理矢理に理屈をつければ、今ある厄介事に加えて新たな災厄が降りかかるのを未然に防いでもらった気がするという理由は、あるにはある。だが《あのおひと》自らそれをほのめかしたことは一度としてなく、また集落の人々がそれを強く期待していたわけでもなかった。極めて消極的かつ無言の強請りたかりと言えなくもないゲルハルトの生業は、集落全体の無意識の協力によって辛うじて成立していたのであり、また人々の優しさと愚かさによって、ある種気高い儀式性を獲得していた。

 桃の里集落の人々とゲルハルトの麗しくも鬱陶しい関係は常に安定していたわけではなく、無論いくらかの波風を乗り越えて達成されたものであり、そのひとつとして二十数年も前のこと、ある噂が集落全体にうっすらと流れたことがあった。いわく、《あのおひと》はどこぞの子供を拐かしておいでになった。

 はじめは、乳飲み子の泣く声を聴いただの、例のややこしく曲がりくねった私道を赤子を横抱きにした《あのおひと》がお歩きになるのを目撃しただのと、見たままを報告するものであったが、いったん疑いをもってしまえば《あのおひと》の容貌風体はいかにも怪しげで、幼児虐待やら殺人やら、猟奇的な色合いを帯びはじめたころ、少し成長した当の子供が比較的元気な様子で立ち働く姿が見られるようになり、噂は急速にしぼんでいった。それでもしつこく自説にこだわる者はいて、わざわざ様子を窺いに出向いたりしたが、運よく例の子供が《紫の煙の小径》の草むしりをしているのに行き合わせた場合も、じっと目を凝らせど虐待の痕跡など見当たらず、当の子供は助けを求めて駆け寄ってくるでもなく、引き抜いた雑草をぶら下げたまま立ち上がり、ただぼんやりと見返すだけであり、それは孤独に慣れた犬の目のように静かな視線なのであった。見るところ確かに、粗末な服を着せられてたったひとりで草むしりをさせられている幼児の姿は痛々しいのだったが、粗末な服はこの家の台所事情のせい、あるいは《あのおひと》の教育方針かも知れず、結局のところ曖昧な安堵の溜め息を吐いて帰ってしまうのだった。

 噂は、《あのおひと》は名状しがたい生業の後継者を育てているのだということに落ち着いた。

 だが、ゲルハルトは後継者を育てているわけでもなかった。噂が終息するより一年ほど前のある暗い朝、子供を呼びつけてこう言った。
「今日からお前の名はハンスだ。それ以外に名乗るべき名はない。俺の名はゲルハルト・パンネンシュティールだがな、肝に命じておけ、お前はハンス・パンネンシュティールでは決してない。お前はハンス、ただのハンスだ」

 ハンスという名前と同時に台所脇の小部屋を与えられ、バケツや雑巾や、その他諸々のおしなべて暗い灰色をした用具一式が手渡された。四歳にもならない幼児であったが、その日から下僕としての暮らしが始まったのだ。

 小さなハンスは命じられるままに清掃を担当した。きのうまで孤独な遊び場だった暗い廊下を灰色の道具たちを引きずり、こけつまろびつ孤軍奮闘する姿は清掃というよりは哀しい遊びに似て、当然はじめのうちはハンスの這いずった跡はよけいに薄汚くなるのであったが、ここでもゲルハルトの教師としての才能は発揮された。書斎と書庫を除くあらゆる場所から塵と汚れを追放しろ、磨くべき箇所を磨きに磨けとゲルハルトは言い、言うばかりでなくハンスの後につきまとって、自ら手本を見せることは決してしなかったものの的確な指示と厳しい検査をし、幼いハンスの背丈に合わせてハタキの柄を継ぎ足してやるなど用具の改良にも意外な心配りを見せたりもしたから子供は見る間に腕を上げ、玄人裸足の掃除人となった。

 集落の人々に目撃された例の草むしりも月に一度は命じられ、小さい子供は《紫の煙の小径》という少々語呂が悪くて優雅な名称も知らずに、ややこしく曲がりくねった石の道筋をまるで無視して闇雲に地面を這いまわり、草をむしった。

 ある時、階段の手摺りに施された無意味な浮き彫りに幼い指を突っ込んで埃を掻き出している最中に、そっと背後に忍び寄ったゲルハルトが囁いた。おい、この家には二階があるのだぞ。振り向いたハンスの怪訝な表情に、顔を寄せてなおも低く囁いた。今、お前がちっちゃな指を突っ込んで綺麗にしようとしているのはなんだ? 階段の手摺りだな? 階段があるからには二階があると判断せよ。俺は言ったはずだ、書斎と書庫を除くあらゆる場所を掃除しろと。ゲルハルトはぐいと顎をしゃくって見せた。上れというのだ。ぴたり背後についてくる大男に押されるように、ハンスは階段を上った。確かに、階段があれば二階があるのは当たり前で、それに気づかなかった己れの迂闊さと世界の狭さに暗い気分になりかけたが、当時のハンスは今ほど感傷的な人間ではなかったから、二階があんまり広くないといいのになぁとだけ思って、ささやかな踊り場をひとつ折れてさらに上ると確かに二階があり、廊下の突き当たりに穿たれた細長い窓から盛大に朝の光が雪崩込んで、階下の暗さに馴染んで育ったハンスは目が眩んでうずくまった。廊下の両側にはまったく同じ扉が、片側に三つ、合計六つ並んで、ささやかな願いに反して二階の清掃領域はなかなか広そうだとがっかりしたが、物珍しい陽光をいっぱい浴びて床を磨く自分の背中を想像してみると、それも案外悪くない、否この浮き浮きした気分はおそらく自分はとても嬉しいのに違いないと、普段は薄暗い場所に押しこめられている喜びの感情がゆっくり花開いてゆく様を、ハンスはうずくまったままでしばらく観察したのだった。見ると、短い夢想のあいだにゲルハルトは姿を消しており、代わりに何かを引っ掻くような短い咳払いが聞こえて、ハンスはおずおずとその扉を開けてみた。

 陽光あふれる寝台に、輝く子供が寝ていた、いや半身を起こしてハンスを睨んでいた、いや子供ではなくて年老いた女であった。あまりに挑戦的な目であったから、自分と同じ年ごろの子供だと錯覚したのだ。それにまだ短い人生経験のなかで、これほど年老いた人間を見たことがなかったから混乱し、恐怖した。
「息子のいれたお茶を」と、挑戦的な目をしたまま挑戦的な声で老婆が言い、恐ろしさのあまりハンスは灰色の用具たちを蹴散らして階下へ転げ降り、ゲルハルトを探した。二階の老婆に較べれば懐かしさすら感じるゲルハルトと、この恐怖を分かちあえるような気がしたのだ。

 台所でゲルハルトを発見し、その背中にこう報告した。
「二階にとても怖い人がいて、息子のいれたお茶を、と言ったのです」

 ゲルハルトは、ごくゆっくりと振り返り――それは両手に持った銀盆のポットと紅茶茶碗を揺らさないためであったが――静かに台所を出ていった。

 注意深くお茶を運ぶ背中が遠ざかってゆくのを、ハンスは息も出来ずに見送った。今、息子がお茶をいれて運んでいるのだ、あれが息子なのだと、いまさらながらに理解し、考えてみれば今と同じように台所でお茶の支度をしているゲルハルトさんを何度も目撃したんじゃなかったか? 花模様の繊細な揃いの陶器を銀の盆に並べて真剣な様子でお茶の支度をしていたじゃないか、誰が飲むでもないお茶を? いや、お茶ばかりじゃない、ご飯もだ! と、驚愕のために目玉を剥出し、ハンスは怒涛の理解をした。

 この家の食事風景は見事に殺風景で、もとは食卓であったらしいテーブルはいまや木工作業台のごとく荒れてささくれが目立ち、実際その上には野菜の笊や粉の袋、調理用具のあれこれが散乱して場所を占めており、椅子などは遥か昔に隅の暗がりに押しやられ、そのためにゲルハルトもハンスも座って食事をすることはない。調理はもっぱらゲルハルトが担当し、ごく簡素な、毎日代わり映えのしない煮物や炒めもので、二人とも立ったまま鍋やフライパンから直接食べた。ゲルハルトが料理をしているあいだ、ハンスは暗がりの椅子に腰掛けて足をぶらぶらさせて待ち、退屈しのぎに一度手伝おうと申し出たことがあったが、ゲルハルトは手厳しくはねつけ、こんなことを言った。
「お前のような者に火や刃物を扱う資格はない」

 容貌風体にぴったりの魔術師めいた言い草だったが、当人が操っている火や刃物はといえば、古びてはいるがありふれたガスコンロでありステンレスの刃毀れ包丁であった。

 立ったままの食事が無言ではじまり、暗黙の了解のようなもので終わると、鍋の中にはおよそ一人分のものが残っているのが常で、ハンスが鍋から離れるとゲルハルトが食器棚の扉を開けるのだ。そうなのだ、ご飯もだ! 花模様の繊細な揃いの陶器にぴかぴかのスプーンやらナイフやらを添えて、自分たちが食べたと同じものを見違えるほど美しく上品に盛りつけ、さらには庭のどこかで自ら摘み取ってきた花びらやら葉っぱやらを飾りもしてたじゃないか? 誰が食べるでもないご飯を? そうじゃない、そうじゃないんだ、みんな二階の怖いひとのため。

 押し寄せる怒涛の理解と、そして恐怖。それから、哀しみ。哀しみは、自分自身の迂闊さに対するものであった。あれほどいろんなことを見ていたくせに、ぼくはほんとのことをなにひとつ見ていなかったのか? 断片を見て全体を想像せよと本で読んだとき、なるほどなと感心したくせに、ぼくの実情はこのとおり情けないばかりだ。ああ、こんなことじゃ生きていかれない、こんなことじゃあ生きていかれない! 哀しみに押し倒されるように五歳のハンスは気を失った。

 その日以来、二階の清掃をすることになり、陽光を浴びて仕事をするというささやかな夢想は現実のものとなった。

 二階の六つの部屋はすべて寝室であった。老婆はなぜか毎日寝場所を変えた。二階の清掃にゆくたびに、ハンスは廊下の真ん中辺りで幼児には似つかわしくない咳払いをし、それに対する反応――たいていは、何か引っ掻くような咳払いや、小さな物を落とす微かな音――で、老婆の所在地を察知するようになった。いきなり出くわして肝を潰さないための幼い知恵であったが、やがて、咳払いをする前に本日の老婆の寝室を予測してみるようになり、密かに《寝室当て》と名づけたこの恐ろしい遊戯は、当たったためしはなかったにせよ、概ね灰色であったハンスの生活にわずかな彩りを添えた。

 そして毎日、「息子のいれたお茶を」という老婆の言葉を伝えるために台所へ下りてゆく、と、決まってゲルハルトが今まさにお茶の支度の整った銀盆を捧げ持っているところなのであった。

 母親と息子の強い絆に完全に弾き飛ばされた恰好のハンスではあったが、かえって気持ちはすっきりして幼児には重すぎる労働にのめりこんだ。

 自分が何者でありどんな名前であったのか、幼い記憶は失われていた。確かなことは、ゲルハルト・パンネンシュティールという古びた匂いに包まれた男のもとでものごころつき、読み書きの手ほどきをしてくれたのもこの男だということだった。

 薄暗い書庫の迷路じみた書棚の奥に小さな読書用机があり、ここで毎日の授業が行われたが、幼児教育に効果を発揮しそうな愛らしい動物の絵やらクレヨンやらの楽しげなものは一切用いられず、代わりにゲルハルトの手には常に革製の小さな鞭が握られていた。ただし一度も振るわれることはなかった。いささかぼんやりしたところのある子供であったが、教師の予測に反して驚くほど物覚えが早かったのだ。

 優秀な生徒が書架に並んだ書物のあれこれに興味を示しはじめると、唐突に授業は打ち切られ、同時に書庫への立ち入りは堅く禁じられた。

 清掃を免除――あるいは禁止――された書斎は、同じく清掃を免除――むしろ禁止――された書庫と廊下を挟んだ向かいにあり、この部屋の本当の主は塵と埃なのであった。散乱した本や用途不明な物たちは降り積もる塵によって意味も価値も輝きも隠蔽され、おとなしく死んでいた。さらにその上に物は積まれてゆくのだが、埃は一瞬の休みもなく降り注ぎ、その意志の前には何者も無力であった。昼日中も変わらず重く閉ざされたカーテンの、針の如き隙間から射し込む陽光の中できらめき踊る塵の濃密さを見れば、この部屋にいるかぎり空気よりもはるかに大量の塵を呼吸しているのだと思えて息苦しくなるほどに。

 ゲルハルトはほとんどの時間をここで過ごしていた。昼も夜も。そう、夜も。見たところ寝台になりそうなものはなかったから、堅い木の椅子で眠ったのだろう、書き物机に突っ伏して。

 この書斎で、ゲルハルトは死んでいた。

 〈薔薇色の夜明けに出航だ。が、まだ時間がある。たっぷりある。おまえは少し眠る必要がある。小鳥ほどの体重のほとんどを俺の腕に預け、安堵と幸福のために既に目蓋は重いのだ。無理もない。複雑で細かい俺の指示をひとつも間違えず、緊張と不安と興奮の連続に耐えてここまで来たのだ、無理もない。

 船室へいこう。

 外見は美しい船にすぎないが一歩中へ入れば、そこは小さなパリ。靴屋も美容院も図書館も、カフェもレストランも劇場も、必要なもの不必要なものすべてがある。小粋で綺麗で親切で意地悪で複雑な、小さなパリ。

 おや、あれは誰だろう? 遥か遠くから俺たちめがけて真っすぐにやってくる、あの男は? 完璧に抑制された優雅な身ごなしと、靴音を消してしまう高価な絨毯のせいでそうとは感じさせないが、男は全力疾走で俺たちの前に到達する。
「お待ち申しておりました、パンネンシュティール様」

 この船の事務長なのだ。数えきれないほどの航海をイル・ド・フランス号とともにし、すべての乗客の顔と名前と好みを憶えている。一等船客の上得意はいうまでもなく、たった一度三等に乗っただけの客も、一度も乗ったことのない客も。
「船室へご案内いたしましょう。特別室を御用意しております」

 それだけ言うと先に立って歩き出す。特別室が広々として――なにしろ、寝室が二つと居間が三つあり、その気になれば大きなパーティを開くこともできるほどに――豪華であることも、洗練された家具調度の一つ一つに意匠を凝らしたのが名だたる芸術家の誰それであることも、居間のひとつにさり気なく置かれているピアノが特別誂えであることも、腕に自信があるならその美しいピアノで演奏会を催すことが可能であることも、自信がなければ専属の音楽教師を呼んで日夜稽古に励めばいいことも、何ひとつ、押しつけがましく自慢たらしいことは何ひとつ、事務長は言わない。

 ただ、特別室の扉の前で、かすかに目を開いたおまえに、羽毛の如き微笑みを以て囁く。「イル・ド・フランスへようこそ。素敵な船旅をお約束いたします、奥様」〉

 小屋は耐え難く暑かったにもかかわらず、ハンスは悪寒に震えながら読んでいた。背骨の、最も敏感で無防備な部分、命の中枢にあたる部分に、悪意の如く尖った何かが押し当てられているような気がした。思いきって言ってみた。「少し、離れてくださいませんか、塚本さん」
「ふん」と鼻息を吹きかけて塚本ヤスエが体を横にずらした。

 背骨への圧迫は消え、ついで右肩にのしかかっていた熱い重量も消えた。見ると、尖った悪意と感じていたのは硬く組み合わされた両手の中指の関節なのであった。

 塚本ヤスエはハンスの背中に覆い被さるようにして一緒に手紙を読んでいたのだ。祈るほどの熱意で。あるいは呪咀する者の執拗さで。
「塚本さん、一度は読んだんじゃないんですか」
「読んださ、あたしの目ではね。今はあんたの目で読んでる。あんたの目とあんたの脳味噌を使って。悪いか?」
「悪かありませんけども」

 〈それにしても、本当に素晴らしい部屋ではないか! 事務長の言った通り、否、言わなかった通りだ。すべてはおまえのため。おまえのためなのだ。

 だがおまえは、もうこれ以上一瞬たりとも立っていられないだろう。贅を尽くしたあれこれに一瞥を与えるでなく、感嘆の叫びも溜め息もなく、海の如く豊かな寝台に身を投げるのだ。幸福な眠りにまっしぐらに落ちてゆくその刹那、実に愛らしい心配事がおまえの頭の片隅に浮かぶだろう。このまま眠ってしまったら大切な菫色の夜会服が皺になってしまうんじゃないかしらん? そうだ、その通り。夜会服は台無しだ。しかしね、おまえ、心配はいらない。おまえはまだ知らないが、あすこの控えめな扉の向こうは大きな倉庫室なのだ。そこには七十四着の服がきらびやかさを、可憐さを、優美さを競い合っている。むろん寸法はおまえにぴったりだ。おまえに一番に袖を通してもらいたくてひしめき合っている七十四着の服たちを想像してみるがいい。実物大の百合の花が何本も描かれた卵色のアフタヌンも、茄子色の天鵞絨に宝石をちりばめた夜会服も、全体には空色だが微妙に色味の異なる薄地を何枚も何枚も重ねてつくったセンチメンタルな舞踏服も、甲板をそぞろ歩きするときの知的で憂鬱な沼の色をした散歩服も、すべておまえのもの。劇場へゆくときは踊り子たちよりずっと蓮っ葉に見えるドレスでなくてはならぬ。色とりどりの羽飾りで蔽い尽くした馬鹿げた一着はそのためだ。図書室で本を読むふりをしたくなったら白い大きな衿のついた群青色の一着を。ボール遊びをしたくなったときのためには軽快なレモン色のを用意した。すべておまえのために、俺がこの眼とこの指で一着一着吟味し、選んだのだ。

 だから、心配は無用だ。皺になった夜会服など脱ぎ捨てて倉庫室の服たちのなかへ飛び込めばよいのだ。

 そして、そしてもうひとつ。俺はどうしようもないほどに紳士である。かすかに寝息をたてはじめた無防備なおまえに、これ以上は半歩も近寄ることができぬほど、俺は紳士である。

 だから安心して眠るがいい。愛しさと欲望に身をよじりながら、俺は寝台から遠ざかるとしよう。おまえの眠りを妨げぬよう明かりを暗くしよう。ほどよく離れた場所に小卓があるではないか。あれに身をもたせかければ、愚かな肉体の熱も冷たい大理石の表面によって冷やされ、怜悧な頭脳が本来の働きを取り戻すはずだ。暗い夜の海に漂う大輪の花の如きおまえの寝姿を、ただ眺めて熱い吐息を吐いているわけにはいかないのだ。俺の頭脳は忙しい。おまえが眠っているあいだに考えるべきいくつかのことがある。

 まずは、船上で催す俺たちの婚礼についてもう一度検討しておく必要がある。俺の計画は凡庸さや退屈とは無縁だ。出航の翌々日から八日間、厳粛かつ幻想的な式にはじまり、夜を撤しての大舞踏会あり、晩餐会に昼食会はいうに及ばず、乱痴気騒ぎの各種お遊びも考案済み、星降る夜の甲板で遣る瀬ない弦楽器の演奏会もある。広大な船のあちこちで同時多発的に勃発するこれら多種多彩な催しは、その数のべ三十四。客たちは時間の経つのも忘れて貪欲に楽しみ、主人公である俺たちの神出鬼没ぶりに拍手を惜しまないだろう。俺たちは俺たち専用の綿密な予定表に従ってすべての催しの最も効果的な場面に登場するのだ。だがいかなる場所いかなる華やかな場面の中にあろうとも、俺たちはふたりながら孤高という名のヴェールを纏っていなければならぬ。絢爛たる舞踏の渦の只中で誇らしさに心臓がとび跳ねていようとも、客たちに十重二十重に囲まれて祝詞と賛美の千のつぶてを浴びていようとも、俺たちはふたりながら憂鬱な霧のなかで青ざめていなければならぬ。この旅行の最終目的地は、浮ついた気分から遥か遠く隔たった静謐の城であり、俺たちはふたりきり、孤独な王と王妃の如く、愛情と諦めと夢と後悔に満ちた気高い暮らしをはじめるのだから。

 おっと、忘れるところだった。俺たちの婚礼の招待状を作らせなくては。イル・ド・フランスには印刷室だってあるのだぞ。毎朝船室に配達される可愛らしい新聞《黒山羊通信》も、金の縁取り模様の美しい晩餐献立表も、迅速と洗練をモットーに船の印刷室で作っているのだ。

 おまえの眠りは深い。美しく愚かな死人のようだ。

 さて、俺は最も重大な案件にとりかかるとしよう。

 最も重大な案件――それは、航路を決定することなのだ。この船の航路を決めるのは俺なのだ。俺はそれほど重要な人物なのである。あまり時間がない。出航までには決めなくてはならない。三時間もしたら船長の使いが俺を呼びにくるはずだ。

 おおまかなところは既に決めてある。まずは太平洋を横断し、科学的興味と若干の危険に胸躍らせてパナマ運河をすり抜けようではないか。カリブ海を適当ににやり過ごして北上しメキシコ湾でくるりと一回り。左にフロリダ半島が見えたら甲羅干しの連中に手を振ってやろう。そうこうしているうちにもう大西洋だ。だが太平洋に比べればなにほどのことはない、ほんのひとっ走りだ。そしてやや慎重にジブラルタル海峡を抜ければそこは地中海だ。アフリカ大陸から吹きつける熱風を受けてバルセロナ、そしてマルセーユに入港だ。ここで豪華な船に別れを告げ、陸路を北へ、北へ。欧州の憂鬱を一枚また一枚と身に纏いながら、俺たちの城へゆこう。

 ただ、一箇所だけ、俺も決めかねているところがある。まずは太平洋を横断し、と俺は書いたが、ただ横断するにはあまりにも広い。どこか一箇所くらいは立ち寄る必要がある。そこで、ハワイとタヒチのどちらにするか、決めかねているのだ。おまえならどっちを希望するかね? ハワイか? タヒチか? 

 さあ、選んでくれ、ハワイか? タヒチか? 

 なんと、俺に決めろというのか? それができるくらいならおまえに託しはしない。俺は決められぬのだ。悩ましいことだ、これほど明晰な頭脳を持ちながら決められぬとは、否、明晰であるからこそ決められぬのだ。

 おまえの無知と無邪気を振りかざし、さあ、決めくれ。ハワイか? タヒチか? 論理とはまるで無縁の原始的感情だけをたのみに、さあ、選ぶのだ。ハワイか? タヒチか?

 是非とも返事をくれ。

 おや、足音が聞こえる。眠っているおまえには聞こえないだろうが、俺には聞こえる。高価な絨毯を踏んで近づいてくる密やかな足音は、船長の使いに違いない。船長はもうこれ以上待つべきでないと判断したのだ。今はまだ遠い足音が、この部屋の扉に到達するより前に返事をくれ。
 眠っているおまえの頬にも健康な血の色が戻りつつある。間もなく夜が明ける。出航の儀式に立ち合うために、皺になった服を着替える時間も要るだろう。
 もう時間がない。急いで返事をくれ。俺がおまえを目覚めさせる前に。
 使いの子供に返事を持たせてくれ。口頭でも文書でも、どちらでもよい。〉

「ぼくなら断然ハワイです」とハンスは言った。

 選択の罠にはまったのはユリスでも塚本ヤスエでもなく、ハンスであった。
「あ、ちょっと待って。やっぱりタヒチですタヒチ」

 自分の意志でアレかコレかを選び取るという贅沢を味わったことが一度もなかったために、あられもなく熱中した。たとえそれが自分に向けられた問いかけでなかろうとも、贅沢であることにかわりはなかった。「でもでもやっぱりハワイにしますハワイです」決然と言ったのち、己が独走を少しだけ恥じてつけ加えた。「あなたは?」

 冷ややかな沈黙が小屋全体の温度を三度ばかりも下げた。ハンスは急激な悲しみに打ち沈み、呟いた。「選択するのはぼくではなく、あなたです」
「馬鹿だね」と、塚本ヤスエが言った。「だれも選択なんかしないよ」


 三日目には手紙を読む作業にも塚本ヤスエにも少しは慣れて、ちょっとした冷静な質問をすることも可能になった。
 〈沈黙のユリスよ、なぜ返事をくれないのか。〉
「この、返事というのは、ハワイかタヒチかの選択のことを意味しているんでしょうか、それともあなたがゲルハルトさんの求婚を受け入れるか否かということでしょうか」
「どっちも、だね。だってそうじゃないか、結婚する気がなきゃハワイかタヒチかなんて阿呆くさい戯れ言につきあう気にはならないだろ?」

 〈船長の使いはもうそこまで来ている。密やかな足音が、ああ、扉の前で止まってしまった。一瞬の間があり、そして、礼儀正しくはあるが決然としたノックが、一回、二回、三回。俺は扉を開けないわけにはいくまい。
 若いボーイが立っている。
「船長がお待ちしております、パンネンシュティール様」
 案の定。
 俺は行かないわけにはいくまい。
「船長室へ御案内いたします、パンネンシュティール様」
 眠るおまえを残して俺は部屋を出る。懊悩を押し隠し、悠然とした足取りでボーイのあとについてゆく。
 暗紅色の高価な絨毯が真っすぐに延びている。俺とボーイのほかは誰もいない。出航の準備の慌ただしさはどこにもない。陽気な挨拶で束の間でも俺たちの歩みを止めてくれるお喋りな乗客もいない。乗客たちはすべて、その膨大な数の荷物とともに各々の船室にしかるべく収まり、出航の報せを待っているのだろう。
 船長の使いは淀みなく歩いてゆく。
 だが、まだ希望はある。航路は殆ど決めてあるのだ。ハワイかタヒチかの選択を残すのみ。ボーイが船長室に辿り着く前に、返事をくれ。そうすれば俺は本来の威厳と余裕を取り戻し、船長に会うことができるのだ。
 返事をくれ。使いの子供に返事を持たせてくれ。〉

 この日ハンスが開いた一通目はボーイの登場を受け入れ、続く二通目、三通目はいうに及ばず、なんと二十七通にわたってゲルハルトはボーイの後について歩いてゆくだけであった。文面は概ねボーイの後頭部を描写することに費やされていた。

 二通目では〈きれいに櫛目のはいった褐色の髪は硬く短く整えられて、襟足には未だ子供である証の羞恥と無頓着が同居し〉ていたボーイの後頭部は、十六通目には〈ゆるやかに波打つ金髪が小さくて形の良い頭を覆い、わずかに覗く耳たぶは今はまだ無垢なる産毛に守られているが、いずれ美食家の女どもが寄ってたかって食べてしまうに違いない〉ほどに昇格し、さらに歩みを進めた二十一通目ともなると〈それ自体が発光しているかのごときプラチナ・ブロンドの豊かな巻き毛は華奢な肩に流れ落ち〉るようになり、船室を出発したときは剥き出しだったはずの襟足はすっかり隠れてしまっていた。そして、
 〈このボーイがいかに美しかろうと、おまえは彼に恋着してはならない。おまえは俺の妻になるのだし、おまえはこのボーイを見たわけでもない。おまえはまだ眠っているのだから〉
 と、数回にわたって念を押すのを忘れなかった。

 一足ごとに髪が伸び、ふた足おきに脱色を重ねて輝きを増してゆく後頭部を持つボーイは、二十七通目にしてはじめて、

 〈振り返り、こう言うのだ。
「船長室です」
 俺はついに来てしまった。ハワイかタヒチか決めぬまま、船長に会わねばならぬのか。凍りついた俺の顔を怪訝そうに見ている美しいボーイの唇が再び開き、
「船長室です、パンネンシュティール様」
 言うと、天使のごときボーイはいきなり扉を開け放ったではないか。
 扉の向こうは闇。
 闇のなかで、船長の凄まじい声が轟いた。
「お待ちしておりましたよ、パンネンシュティールさん」〉

 二十七通の手紙を通じて濃密につき合ってくれた艶麗なるボーイは、天使の翼を広げてあっけなく飛び去った。

 残されたのは開かれた扉の前でおののき震えるゲルハルト。扉の向こうには船長が、ついに航路を決定する期待に胸膨らませたために、部屋全体に充満してしまうほど膨張しているらしかった。

 そしてもちろん、二十七通のすべての最後は、判で押したような懇願の〈使いの子供に返事を持たせてくれ〉という一行でしめくくられていたのは言うまでもない。
「ねえ、大変なことになっていますよ」ハンスは声をかけた。
「ああそうかい」塚本ヤスエはくぐもった声で応えた。煮物を頬張っている最中だったのだ。魔法瓶に詰めた褐色の液体はかなりのこだわりを以て自分で拵えたものだが、煮物は塚本・母が昨夜の晩飯に作った残り物であった。夏の盛りに半日以上も放置されていた煮物は少々怪しげであり、怪しげであればこその危険な味覚の誘惑に抵抗できるものではない。
「あんたも食べる?」少し縁の欠けた猫の茶椀めいた器をしっかり抱え込んだまま、塚本ヤスエは言った。言ってみただけなのだった。本当に食べさせてやる気などさらさらなかった。
「いえ結構。それより、ねえ塚本さん、大変なことになっています。船長は船長室いっぱいに膨らんでいます。ゲルハルトさんは絶体絶命ではないでしょうか」
「むわぁ」と幸せそうなおくびをひとつ洩らし、ひどく間延びした口調で塚本ヤスエは言った。「いいじゃあないか、好きなだけ絶体絶命させておけば」空になった器を買物籠に仕舞いながらいよいよ楽しげに続けた。「そもそもハワイだのタヒチだのどうでもいいんだよ、ただもう色良い返事をもらいたいばっかりにそんな阿呆なことを思いついただけなのさ。ねえ、もしもだよ、もしもあたしがうっかりハワイかタヒチか返事をしたら、あたしはその前にゲルなんとかの嫁にゆくって承知したってことになるじゃないか。ヤッちゃんともあろうものがそんなへなちょこな計略に引っ掛かるもんじゃないのさ。そうだろハンちゃん? ちょっとおつむを使えばわかることさ。それともあんた、わからなかったんじゃあるまいね、ねえハン公、どうなんだい?」

 愛くるしいほど高慢ちきな塚本ヤスエに、昨日までの情熱と一途さはなかった。今日は小屋へ入ったときから少し離れて腰掛けていたし、所在なげに買物籠をかき回してみたり鼻歌を歌ってみたりで落ち着きがなく、ハンスが読んでいる手紙を熱心に覗き込むこともしなかった。それもそのはず、この日の主人公はボーイであった。
「本日はこれまで!」と、塚本ヤスエが言い、この日はまだ陽があるうちに終了した。

 ハンスはこの日の塚本ヤスエの熱意のなさを少々残念に思った。

 空になった煮物の器や魔法瓶や、その他色々のものを買物籠に放り込み、小屋の扉に大きな南京錠を掛け、窄めた日傘を滅茶滅茶に振り回しながら、塚本ヤスエは帰っていった。少女趣味的レース編みの日傘はこの日以降も一度として開かれることはなく、本来の用途である陽射しを避けるためでなく、持ち主の乱暴な性質を遺憾なく発揮するためにのみ使用された。


 四日目ともなると、手紙の内容になるたけ影響を受けず、つまりやたらに動揺したり涙を流したりすることなく、無心に字面を滑っていこうと心に決めて、小屋に出勤した。

 が、その字面たるもの、とうてい一筋縄ではいかぬ悪筆であり、ぼんやり眺めているだけでも書き手の情熱やら悪意やら悪趣味、嘲りといった様々なものの飛沫がハンスの目を襲うのであった。

 〈目覚めよユリス、さあ起きるのだ。
 俺は何度もおまえの名を呼ぶ。ユリスよユリス、目を覚ませ。
 出航の時は迫っている。船窓から見えるのは未だ夜の空だが東の方には薔薇色の兆しが見えるだろう。
 ようやく目覚めたおまえは、ぼんやり部屋のなかを見回して、夢から覚めたはずなのにまだ夢の中にいる不思議に戸惑っている。さもあらん、さもあらん、豪奢な調度と眩いシャンデリアは夢のように美しくおまえの目を眩ませるのだ。だがもう時間だ。俺たちは甲板へゆかねばならん。〉

 ハンスはうろたえて立ち上がろうとした。今日は再び熱意を取り戻して背後から手紙を覗き込んでいた塚本ヤスエの鋭い顎が、ハンスの肩に激突した。

 ふたりは突然の痛みに顔を歪め、しばらく無言でうずくまった。ようやくハンスが息を整え、言った。「なにか、なにか抜けてやしませんか?」

 読んでいた手紙の封筒に記された番号を確かめ、そこらじゅうに並べて置かれた封筒の番号を確かめた。
「なにが抜けてるっていうのさ、こん畜生!」激しい怒りと痛みに顔を斑に染めて、塚本ヤスエが叫んだ。
「だって、船長室でなにが起こったのか、って部分がどこにも見当らないのです」
「そんな部分なんかなくったっていいじゃないか」
「でも、それじゃあハワイへ行くのかタヒチへ行くのかもわからないまま出航することになります」
「ふん。そんな部分なんかないんだよ、もともとないんだ。あったところであたしは興味ないね、ぜんぜん」にべもなく言った。

 〈俺はおまえの右手首をつかんで走る。甲板へ。
 おまえは夜会服の皺をなんとか手で伸ばそうと虚しい抵抗をするが、立ち止まるわけにはいかないのだ。是非とも出航の場面に立ち合わねばならぬ。〉

「ゲルハルトさんはちょっと不機嫌じゃありませんか?」
「返事をやらなかったからね」

 哀れなユリスは着替える暇も与えられず、髪はくしゃくしゃリボンは解けて垂れ下っていたが、ゲルハルトは一切かまわず寝呆け眼の新妻の手をひっつかんで大変な勢いで走った。
「だいぶ乱暴に扱われていますね。大丈夫でしょうか」
「大丈夫。ゲルなんとかなんぞに負けるもんじゃないさ」

 ゲルハルトはなおも抵抗するユリスを引きずって、大食堂の迷路のように配置された食卓の間を迷うこともなく走り抜けた。

「大丈夫ったって……塚本さんがいくらがんばっても、書いているのはゲルハルトさんなんですから……自分の好きなようにいくらでも書けるんですから」
「あんた、ハンちゃん、しっかりしな。この手紙はね、二十年前のなんだよ。ゲルなんとかはこないだ死んだんだよ」

 〈急がねばならぬ。最短距離をゆかねばならぬ。イル・ド・フランスは広いのだ。俺は目の前に迫ってきた扉を開ける。舞踏室か。〉

 そのだだっ広い舞踏室を通過する際には大胆な跳躍を三回も試み、空っぽの劇場では舞台上手から華麗に登場してあっというまに下手に退場。誰もいない観客席から喝采が聞えたなどと嘯き、最上階の甲板への最短距離を選んでいるつもりにしては実に妙な場所を次から次に通過して――あろうことか船倉のボイラー室にまで立ち寄ったのだ――ようやく甲板に到達したときには、出航の場面に必要なありとあらゆるものが出揃っていた。

 〈見よ。未明というのに埠頭は見送りの群衆で埋めつくされ、すでに舷側に居並んだ乗客とのあいだに歓声と怒号と悲鳴が交錯し、お定まりの五色のテープが巨船を繋ぎ留めておこうとでもいうように虚しく絡み合っている。
 聴け、喧騒の合間を縫って流れる哀切きわまる曲を。白い制服で勢揃いした楽隊は群衆の涙を絞り尽くそうと懸命なのだ。
 出航の儀式というものは、居合わせた者すべてに己が人生を振り返えらせずにはおかないのだ。ゆく者も残る者もすべてが色褪せた後悔に捉えられ、打ち振る手も束の間鈍る。それからまた気持ちを奮い立たせて海の彼方の見知らぬ土地に希望をつなぐのだ。だが、おまえは違う。おまえはまだ若い。振り返るに値する過去はない。代わりに俺がいる。俺だけを見ていろ、おまえを守るのは俺ひとりなのだから。
 豊かな旅装に身を包んだいずれ劣らぬ貴顕紳士と淑女たちの中で、俺たちは人知れずひっそりと寄り添うのだ。皺くちゃの服を着て惨めに萎れた今のおまえは誰の目も惹かないが、二日後にはすべての女たちの羨望の眼差しを集め、すべての男どもの溜息と称賛の的となるだろう。〉

「少し機嫌をなおしたみたいです」
「みたいだね」

 ふたりの顔はぴったりくっついて並び、ひとつの文面を見つめていた。ひとりの肩ともうひとりの顎は先刻の激突の名残りで疼いており、わずか指一本分の隙間を隔ててずきずきと脈動を共有していたために、ふたりはほとんどひとりであった。
「でもなかなか出航しませんね」
「しないね」

 〈おっと、あれを見よ。見送りの群衆の中から投げられた一本のテープが奇跡の曲線を描き、甲板で覚束なげに帽子を振っていた老紳士の――なんということだ――その帽子を弾き飛ばしたではないか。帽子は転がって転がって、おまえの足元で止まった。おまえは腰をかがめて帽子を拾い、微苦笑を浮かべて追いかけてきた老紳士に差し出すのだ。
「御親切に感謝しますよお嬢さん」
 しかし俺は知っている。テープ――黄色だ――が狙ったのは老紳士の帽子ではなく、そのすぐ傍らで手も振らずに立っていた男だ。男は黄色いテープの先を目で追う。そこにはすでに投げた者の姿はない。女は――俺は見ていたのだ。黄色いテープを投げたのは女だった――人波をかき分けて立ち去ろうとしている。女は変装している。鼠色の目立たぬ服を着て鼠色のショールを巻き、今それをきつくかき合わせて群集の中へと消えた。
 狙われた男は甲板に転がったテープの芯を拾う。そして、速度と正確さが増すように鉛の玉が仕込まれているのを見る。それをぎゅっと握りしめ、男は再び群衆の中に暗く虚しい視線を泳がせる。
 が、今、楽隊のホルンが、その磨きこまれた真鍮の曲線に黎明の最初の閃光を捉えて輝き、それを合図に景気のいい曲に切り替えて、ここを先途と吹き鳴らす。
 港に停泊したすべての船が汽笛を鳴らして航海の無事を祈り、イル・ド・フランスはひときわ腹に響く声でそれらに応えて優雅に岸壁を離れはじめるのだ。〉

「やっと出航ですね」
「やれやれだね」

 〈よく見ておくのだ。これが別れだ、決別だ。過去を振り捨てて旅立つ瞬間だ。これほどの群衆のなかに俺たちを見送る者は一人もいない。俺たちは完全無欠に孤独なのだ。〉


 出航当日から二日間は婚礼の準備に費やされ、続く八日間は婚礼そのものが、詳細を極めて描かれたのはいうまでもない。手紙にして四百通あまり――ボーイの後頭部を描くのに費やされた二十七通のことを考えれば決して長いわけではなかったが――読むには数日を要した。さしたる混乱も興奮もつまづきもなく、ハンスは淡々と読み、淡々と小屋に通勤した。
「塚本さんは近頃ずいぶん御機嫌ですね」便箋から顔もあげずにハンスは言った。
「そうでもないさ」という声が右前方から聞こえ「こうでもしなきゃ」と左前方へ移動して、真後ろで「退屈だからね」と締めくくった。  塚本ヤスエは狭い小屋の中を飛び回って熱い空気をかき回していた。踊っているつもりらしかった。ハンスは〈豪勢な大舞踏会〉の場面を読んでいたのだ。
「でも花嫁は踊っていませんよ」
「知ってるよ」

 婚礼の初日からずっと、花嫁ユリスは頭からすっぽり床まで届くヴェール――というよりも売りに出された家の家具の覆い布のようなもの――を被せられて、そのため踊ることはおろか自力では一歩も歩くことができない有様だった。

 塚本ヤスエは一息入れるために木箱のひとつに腰をおろした。
「頭からデッカイ風呂敷みたいなものを被ってるから動けないってんだろ? わかってるよ」魔法瓶から水を飲み、吹き出す汗を拭いた。このところ魔法瓶は二本用意され――一本はただの水だが――三枚のタオルと一緒に買物籠に入っていた。「だけどさ、そこんとこずうっと退屈だからね、こうでもしないとさ。ただし、あんたは真面目にやらなきゃだめだよ。読みとばしたり端折ったりしちゃだめだ。当面あんたの役目は読むことなんだからね」再び立ち上がり、退屈しのぎとは思えない熱心さで乱舞した。

 ハンスは、デッカイ風呂敷みたいなもの、という解釈はとても妥当だなと感心して、確かに退屈極まりない〈豪勢な大舞踏会〉の続きを読みはじめた。

 花婿ゲルハルトはデッカイ風呂敷の上から花嫁ユリスの二の腕をつかんで誘導し、舞踏する紳士淑女を巧みに避けながら次なる催しの場に移動していった。

 この先も当分風呂敷が取り払われることはなく、花嫁は食べることも飲むこともできず各種遊興に参加することもなかったが、塚本ヤスエは日々工夫を凝らし、退屈な〈祝賀大晩餐会〉や、退屈な〈お歴々との昼食会・室内楽の演奏付き〉や、退屈な〈星降る夜の大音楽会〉その他色々を惚れ惚れするほどの荒っぽさで実演した。

 乗客たちの心をこめた祝辞や称賛が底をつき、おべんちゃらに聞こえはじめる頃、長く退屈な婚礼の日々はようやく終了した。
「あたしが色よい返事をしてやったら、すぐに風呂敷を取ってやるつもりだったにちがいない」というのが塚本ヤスエの見解だった。それはおそらく正しいと思われた。

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