『ユリス』八章

「船は、ぼんやりと、大西洋に出たもようです」

 この日のはじめ、ハンスは立ち上がり、便箋を両手で持って構えた。かなりやる気になっていた。もう恥ずかしくはなく、少し得意にすら感じていた。

「乗客の皆さんはあの日――忌々しい説明会の日のことですが――以来、何事もなかったかのように社交の日々を過ごしておられるようです。印刷室もまた毎朝可愛らしい《黒山羊通信》を配達するようになって、それによると、今バミューダ海域は大変な嵐なので、ほんのちょっとだけカリブ海に避難いたします、なんて書いてあります。ふふん、嘘に決まってるって、ゲルハルトさんは鼻で笑って言いました。『嵐なんぞであるものか。船長の苦肉の策なのだ。できるだけマルセーユへ戻る距離を短くしておこうという考えなのだ。船長もまた、おまえの返事を待っているのだ。』

 なるほど。だけど、こんな中途半端な策に騙されて暢気に甲板を散歩なんかしてる乗客の皆さんの気が知れません。そもそもどうしてニューヨークへなんかいきたいんでしょう。ぼくならやっぱりハワイです。

 それはともかく、おまえ――つまりユリスさん、あなたはお城選びのことなんかすっかり忘れたみたいに船じゅうを走りまわり、退屈なんかどこ吹く風、ゲルハルトさんの言いつけも無視して朝早くから豚みたいに食べ、昼も夜も誰はばかることない大食漢ぶりを――」

「もういい」と塚本ヤスエ。
「なぜです?」
「もういい下手糞」
 ハンスは無論、傷ついた。昨夜一晩考えて、声の出し方など様々に工夫もしたつもりだった。下手糞だなんて、ひどい――
「小学生が作文読んでるんじゃないんだからさあ」と塚本ヤスエが追い打ちをかけた。
「ぼくは作文読んだことはありません」精一杯の抗議であった。「それにぼくは作文書いたこともありません。ぼくは作文とは無縁です」
「とにかく、もういい!」強引にケリをつけた。
 ハンスは木箱に尻を落とし、うなだれた。
 塚本ヤスエはハンスの後ろにまわり、いつものように肩に両手をかけた。耳元で強く囁いた。「普通に読みな。声に出さずに読みな。あんたの目と脳ミソで」

 〈俺は船室から一歩も外へ出なくなっていた。朝の紅茶は勿論、昼も夜もたった一皿の食事をボーイに運ばせた。生温い社交に嫌気がさしていたのだ。
 ある気持ちのいい午後、例の愛らしいボーイが甲板でおまえに声をかけるだろう。
「きょうゲルハルト様は、朝のお茶も昼食もおとりになりませんでしたけれど、どこかおかげんでも? なんなら船医をゆかせましょうか?」
 と胸を衝かれて、おまえはボーイの眼をじっと覗き込むのだ。アイスブルーの瞳の奥底に危惧が煌めいている。それはボーイのでなく、おまえの危惧なのだ。おまえはふいに思い出す。そういえば昨夜から最愛の夫の姿を見ていない。
 俺は、俺は忽然と消えたのだ!
 当然のことながら大騒ぎになり、船じゅうの人間が俺を捜した。上から下まで、船首から船尾まで。だが、おれの姿はどこにも発見できなかったのだ。
 おまえは――〉

 ハンスは立ち上がった。
 裏切られた悔しさが叫びとなった。
「行方不明になるのはゲルハルトさんなんですね、あなたでなく!」

 幾日ものあいだ難物の手紙を相手に共に闘って、同志としての感情が芽生えつつあったというのに、裏切るなんて! いつか行方不明になる塚本さんを捜すために頑張って読み続けてきたのに!
「そうだね」塚本ヤスエは辛抱強く、ゆっくりと言った。「たしかにゲルなんとかは、いなくなった。とりあえずは、ね。そして、あたしが行方不明になるのはずっと先――あの辺で」と、しゃくった顎の先が四つ目の木箱を指し示していた。それは本当にずっと先のことだった。四つの木箱のうち、今はようやく三つ目を開けたばかりだったから。

 ハンスは自分の早合点を恥じて着席した。が、すぐにあたふたと立ち上がった。
「じゃ、ゲルハルトさんを捜さなきゃ」
「ゲル親爺を捜し出すのは、あたしだ。あんたは落ち着いて、手紙をしっかり読んでいればいい」
「でも、その手紙を書くのはゲルハルトさんなんですから、やっぱり捜さなきゃ」
「ゲル親爺がいなくなったって手紙はあるんだよ、ぜんぶ。ずっと先の、ゲル親爺が死ぬ前の日の分まで、ぜんぶ」と、再び顎をしゃくって四つ目の木箱を指し示した。
「ゲル親爺を捜し出すのは、あたし」塚本ヤスエはもう一度言った。「大丈夫、あたしはうまくやる。それはもうわかっているんだ。だからあんたは落ち着いて、手紙をしっかり読んで、あたしが行方不明になったとき、あたしのやり方を見習って、あんたもうまくやっておくれね」

 ハンスは混乱し、もう何も言えなくなっていた。

 塚本ヤスエは考え考え話した。
「あんたはほんとに、なんていうか、アレだね厄介だね。すぐ泣くし、勘違いで怒り出すし」これでも慎重に言葉を選んでいるつもりだった。「ま、怒りっぽいことじゃああたしのほうが上かもしれないが。他人の古い手紙を読んでるだけでこんなじゃあ、先ゆきたいへんだよ。ゲル親爺が死んじゃったから、あんたこの先ひとりでやってかなきゃならないんだろ? あたしが言うのもおこがましいが、世間はこんなへなちょこな手紙よりずっとややこしくてきびしいもんだよ。まあ、この場所があんたにはきついのかもしれない。ものすごく暑いからね、窓も開かないし。あたしは慣れてるが、あんた弱っちいもんね。どっかほかの場所に移ったほうがいいかもしれないね、あんたのためには。おいおい考えておくよ。まあ、ちょっとお茶を飲みな」と、魔法瓶に手をのばした。
「いまは、いりません」相手の憐憫が余計にこたえて萎れていた。
「是非とも飲みな。飲んでくれたら、あんたに言わなきゃならないことがある」
 命令とも懇願ともつかない言い方だったが有無を言わさぬ強い調子だったために反射的に手を出し、ハンスは飲んだ。飲めば明らかにしっかりした気分になった。近頃ではもう激烈な臭いにも味にも慣れて、製法も成分も明かされないままであったが絶大な効果に信頼を寄せるようになっていた。
「飲んだね。なら、言うよ。あたしたちが乗ってる船ね、イル・ド・フランスね、あれもうとっくに廃船になってたんだ」
「なんですって?」
 腰かけていたにもかかわらずハンスは大きく揺れた。足元をすくわれたような不安を感じた。船がすでにないのなら、この身はどこに? 海は深く、底知れぬ恐怖の対象に変じ、息苦しさに気が遠くなりかけた。
「あんたが乗ってるわけじゃないんだよ」
 塚本ヤスエが丁寧に言い、辛うじてハンスは気絶を免れた。
「それに、わざと隠してたわけじゃないよ。あんたがあんまり、そんなふうだからさ、言いそびれたんだ。あたしだって、はじめてそれを聞いたときは地面が――」
「聞いた? ゲルハルトさんに?」
「違う。ゲル親爺とは口きいたことないんだから――あいつだよ」
 と、真っすぐ窓を指差した。

 窓の外では沙汰達人が両腕をだらりと垂らし、こっちを向いて立っていた。小屋の中からの視線に気づくはずもないのに、うろたえたようにしゃがみこむのが見えた。

「あいつ、沙汰達人が言ったんだ、イル・ド・フランスって船はとっくの昔になくなったんだって」塚本ヤスエにはありうべからざる複雑な感情が胸の内に渦巻き、途方に暮れて、大きな、まるで内蔵ごと吐き出してしまうような溜め息をひとつ吐いた。
「あたしは高校の一年だった。沙汰達人は三年で、山ひとつ越えた同じ高校に通ってた。沙汰のやつが陰であたしをつけ回してるのが気になってたから、学校へ行く途中のブナの林の道であいつを待ち伏せた。草の中に自転車を倒して、あたしは木の陰に隠れてた。こういうときは優位に立たなきゃならないって、あたしは知ってた。あたしは学校の勉強はあんまり出来がよくなかったけど、こういうことはよくわかってた。あいつも自転車でやってきた。あたしが突然飛び出したんで沙汰のやつ道の反対側の木に激突して引っくり返ったね。ざまあみろだった。うんうん唸ってるあいつの顔を上から覗き込んで言ってやった、あたしをどうにかしようと思ってるんなら百年早いよッて。あいつは何も言い返せないでいたから、あたしは駄目押しのつもりでこう言った、近々あたしは豪華客船で結婚式をしてそのまんま外国に行く予定だからあんたなんかの出る幕はない」
「やっぱりそのつもりだったんですね?」
「違うよ馬鹿。そう言っとけば沙汰のやつもあきらめて引っ込むだろうと思っただけだ。けど、あいつは急に真面目な顔になって立ち上がった。なんていう名前の船かって訊くんだ。しょうがないからイル・ド・フランス号だって教えてやったら、その船はもうないんだっていうんだ畜生、悔しいけどそこからはあいつが優位に立った。反対にあたしは腰を抜かしそうになってた。だってさ、その頃のあたしは一日の半分はイル・ド・フランスに乗っていたんだから。今のあんたならわかるだろ? 一日の半分はくだらないアレやコレやで――学校行ったり父ちゃんや母ちゃんの小言につき合ったりさ――潰してるけど、残りの半分は船の上って感じがさ。何年もあたしはそうやっていたのにさ、あいつはたった一言でそれをぶち壊した。あたしがどんな気分かもお構いなしに、あいつはべらべら喋りやがった」

 束の間押し黙った後、土間に強烈に唾を吐いた。
「あたしは学校の勉強は出来なかったが、あいつが言ったことはぜんぶ暗記してる。あんまり驚いたんで何度もそのことを考えたから。あの船はフレンチ・ラインていうフランスの船会社のもので一九二七年に造られた。四万三千百五十三トン、平均二十三・五ノット。処女航海から三十一年後の一九五八年に引退。それから二年後の一九六〇年にアメリカの映画会社が撮影に使うんで燃やしてしまったんだ。火事を起こして沈没する豪華客船の映画を、実際の船を使って撮ったんだ。だからゲル親爺があたしに手紙を寄越すようになる何年も前にイル・ド・フランスはスクラップになってた」

 長い長い沈黙がやってきた。
 どういうわけか、ハンスは塚本ヤスエを気遣い、塚本ヤスエはハンスを気遣っていた。 どういうわけか、互いに相手を励ましたいと切望していた。

 窓の外ではまだ、沙汰達人が蹲ったままであった。この日はなぜか、沙汰砂子の姿はなかった。
 ハンスはゆっくりと立ち上がった。気持ちを強く抱き、声を腹の底から出すよう心がけ、感情に溺れず、誇り高く、まるで沙翁お抱えの俳優の様に読んだ。原文とはいささか違っていたが。

「俺は忽然と消えたのだ。
 船に乗る者すべてが俺を捜している。昼も夜も、夜中でさえも。
 明かりという明かりが灯され、俺の姿を求めて呼び交わす声が響き渡る。
 耳という耳は真剣に研ぎ澄まされ、どんな些細な物音も聞き逃すまいと張り詰める。
 すべての船室、すべての公室、食料庫も機械室も、船底から天井裏の暗がりまで、人一人潜り込める隙間あらば、さてこそここに、と覗き込み、俺の名を呼ぶ。
 それにしても、ああ! あの殺人者までが捜索に加わり、いけしゃあしゃあと俺の名を呼んでいる! 恨みこそせね、唯では済まさぬ。この身に仇なしたはあの男! 言葉巧みに俺を誘い出し、夜の海に突き落としたのはあの男! 殺人者と見破った鋭い俺の眼と口を、未来永劫塞ぐため!
 疲労と諦めが霧のように船を覆い、残すは底知れぬ暗い海のみかと幾百対の眼が不気味に静まる海面を見つめはじめる頃、ユリスよ、おまえは絶望と後悔の底深く横たわり、幸福だった日々の思い出の中で眠ろうとする。瞑った目蓋の内は眩い光があふれ、甲板の手摺りにもたれて無邪気な笑い声をあげるおまえ自身を映し出す。おまえを見つめる俺の広やかな眼差しと、おまえを抱き上げる優しい俺の腕も。それに寝室での子供っぽい睦言。忍び笑い。他愛のない口喧嘩と間をおかぬ仲直り――愛しい懐かしいと目尻に涙を光らせて、おまえは眠ろうとするのか?
 いや、俺は死んではおらぬ。死ぬものか。
 起て、ユリス。俺を捜してくれ。
 起て、ユリス。幸福な狂気を退け、無惨な正気に立ち返るのだ。
 ふらつく足を踏みしめ、甲板へ出でよ。
 おまえにしか出来ぬ事、俺を捜し出すのだ!」

 塚本ヤスエが立ち上がり、叫んだ。
「よし!」


 沙汰達人はただ、立っていた。
 小屋の方を向き、両腕はだらりと垂れていた。
 小屋を見てはいけないと思いながらも見ずにはいられなかった。
 見たからといって、何も見えたわけではなかった。中は暗く、窓ガラスは曇り、なによりも沙汰達人自身の眼が曇っていた。
 畑には来たものの、今日はまだ何もしてはいなかった。何時間もこうして立っていた。何をすべきか考えるのも億劫だった。今日は何もせずに終わるに違いなかった。
 妻は来なかった。今日はやる事があるの、と言い赤い軽四輪でどこかへ行ってしまった。止めるべきだったかもしれない。止めるべきだったのだろう。妻は最近、凄く変だったのに、今日は颯爽として――まるで結婚したての頃の様に颯爽として――出かけていった。これはかえって、物凄く変だった。やはり止めるべきだったのだろう。
 妻の変化は夫のおれにしかわからない。誰も変だとは思っていない。おれ以外の人間にはごく普通に挨拶し、ごく普通に対応しているからだ。
 どこへ行ったのだろう。どこへ、何をしに行ったのだろう。どこへ、何をしに行くのか質問してみるべきだったのだろうか。これまでは、質問する必要などなかった。妻は必ず自分から行き先と行く理由を述べる習慣だったから。どこそこへ買い物に三十分ほど。パン焼きの講習会に二時間ほど。私に相談があるっていうから誰それさんのお宅に小一時間ほど。云々。
 常に明快で明瞭だった。それなのに、今日はやる事があるの、と出かけてしまった。
 妻がおかしな具合になった原因は、この小屋の中にある、たぶん。
 小屋の中には塚本と斜面の家の若いやつがいる。毎日。
 塚本とは高校の時から少なからぬ因縁がある。
 そもそもおれはなんでまた塚本なんかに興味を持ったのだろう。おれのクラスには魅力的な女子が少なくとも三人はいた。顔が綺麗で頭も良くて、優しい感じの――妻・砂子が十九歳の時そうだったように――恋をするにも結婚するにも望ましい相手に思えた。おれだってまんざら捨てたもんじゃなかったはずだ。なぜなら三人のうち二人は何かと声をかけてきたじゃないか。沙汰くん数学教えてくれない? 沙汰くんてどんな本読んでるの? 彼女らに比べたら塚本なんか綺麗でも可愛くもなかった。
 塚本は妙なやつだった。いつもひとりで、ギラギラした眼を――――
 ふいに、小屋の中から強い悪意が発射されたように感じて、沙汰達人はその場にしゃがみこんだ。両腕で膝を抱え、背中を丸めた。自信をなくした時、よくこの姿勢になった。小さい頃からの癖で、こうしてしばらくじっとして自信が回復するのを待つのだ。久しぶりだった。高校のとき以来。
 高三の冬、登校途中の山道で塚本に待ち伏せされた、あの時以来ではないか。

 塚本はいきなり、あたしをどうかしようと思ってるんなら百年早いよッ、そんな風に怒鳴った。おれは仰天して何も言えなかった。どうかしようなんて思ってないと、はっきり言うべきだったのに。塚本は、近々あたしは豪華客船で結婚式をしてそのまんま外国に行く予定だからあんたなんかの出る幕はないよ、確かそんな風にも言った。おれは関係ないと言うべきだったのに、豪華客船と聞いて黙っていられなかったのだ。しかもあいつはイル・ド・フランスの名前を出した。おれは高一のときから船舶同好会に入っていて、イル・ド・フランスは特別に好きな船だった。イル・ド・フランス。通称イル。海を行くアール・デコ。かつて存在したもっとも優雅な船。だが今は存在しない優雅な船。おれはイルについて知っていることをぜんぶ端から喋ってやった。

 塚本は口を一直線に引き結んで黙って聞いていたが、急に草叢から自転車を引っ張り出して猛烈に走り去った。おれが肝心な事を言う前に。イルは大好きだが、おまえなんか好きでもなんでもない、そう言うつもりだったんだ。

 あの時も、こうして膝を抱いて蹲り、学校に遅刻した。

 その後、二年も経ってからだが、おれは塚本に――正確には塚本に、ではなく塚本の両親に、だ――結婚を申し込んだ。おれは、どういうつもりだったんだろう。結婚して、優位に立とうというつもりだったんだろうか。冬の山道で言いそびれたことを、結婚して言うつもりだったんだろうか。塚本も塚本だ。すぐ断ってくれりゃいいものを長いこと放っときやがった。塚本はどういうつもりだったんだろうか。今となっては何も判らない。

 ところで、こう膝を抱いて蹲っていても、何も回復する兆しはない。もうまじないは効かないのだ。脚が痺れてきた。
 沙汰達人は立ち上がることも出来ずにいた。
 悪いことに、背後に――ずっと遠くだが――人の気配がした。あの四人がやってくるのに違いない。虎松さん、局長さん、蜻蜒淵くん、尾花ってひと。
 来ないでくれ。お願いだから、こっちへ来ないでくれ。今日は妻はいないけど、おれ自身が調子悪いんだ。


 虎松は歌うのをやめた。
 林を抜けて、畔道にさしかかる辺りだった。
 マレキアーレはまだ仕上がってなかったから、今日もフニクリフニクラだった。
 ほかの三人も順次、演奏をやめた。
「ねえ虎松さん、斜面の家のやつはほんとにあの小屋にいるの?」
 蜻蜒淵が訊いた。疑ってるわけじゃなかったけれども、この前ここに来たときも、斜面の家のやつには会えなかった。
「うん」虎松が低く唸った。
「わたしも小屋に入るの見たことがあります」局長が言った。
 斜面の家の若者は近ごろ留守がちで、どうやら四色畑の小屋に通っているらしいとの情報をもたらしたのは虎松だった。情報は間違っていないはずだがそれよりも、どうやって斜面の家の若者の為に音楽をやるのかわからずにいた。この前もそうだった。ただ四色畑の周りをぐるぐる回ってフニクリフニクラを歌ったが、それだけでいいのかと疑問が残った。今、歌うのをやめたのはその疑問のせいだった。
 虎松は、しんがりの尾花を振り返った。
「いるにしろいないにしろ」と尾花は冷静な声で言った。「行ってみよう」
 歌と演奏を再開した。

 今日も四色畑に沙汰達人がいた。遠く、しゃがみこんでいる背中が見えた。背中は四人の音楽を拒否しているように見えた。

 この前もそうだった。あの時は夫婦でいて、四人がフニクリフニクラと畑の周りを回りはじめる頃、赤い軽四輪に乗って猛スピードで走り去ってしまった。おれたちの音楽が嫌いなんだろうか。

 塚本・母が台所の敷居の上に正座していた。
 台所には入ろうにも入れず、かといってほかの場所へいくこともならず、中途半端な敷居の上に留まっていたのだ。
 何しろ台所は、見知らぬ女が占領して料理の真っ最中だった。
 見知らぬ女? そうではない。沙汰家の次男坊の嫁に間違いない。
 ピンクのエプロンをかけて、塚本家の旧式の台所を自在に動きまわり、先刻から様々な質問を投げて寄越す。お母さん、だし昆布はどこ? 片栗粉は? 裏ごし器ありましたっけ? ブイヨンは? あらないの? しまったわ! ついでに買ってくればよかった。

 塚本・母は首を振ったり指差したりして無言で答えつつ、忙しく頭を回転させていた。いったい沙汰家の次男坊の嫁がなんでうちの台所で料理をしているのか、思いつく限りの理由を並べてみようと頑張っていた。

 つい今し方、夕飯の支度をしようと畑から戻ってきたら、既にこういう状態だった。そういえば家の前に真っ赤な軽四輪が停まっていて、妙な予感はしたのだったが、まさか台所に見知らぬ女が立ち働いていようとは。

 見知らぬ女――やっぱり見知らぬ女なのだった。見た目は沙汰家の次男坊の嫁だが、中身が違う。よそよそしい清潔さがない。否、清潔ではあるがよそよそしさがない。この自分をお母さんと呼んでいる。沙汰家の次男坊の嫁はこの自分をお母さんと呼びはしない。 それにしても綺麗な指をしている。白くて細くて、器用でもある。髪の毛もよく梳いてあって、膨ら脛はすべすべして若々しい。うちのヤッちゃんといくらも歳は違わぬはずだが、ずいぶん違う。そもそもうちのヤッちゃんは台所に立ったりはしない、妙な匂いの飲み物を煎じる時以外は。

 塚本・母はようやく口を開いた。
「あんた誰ですか。うちの台所で何してるですか」
 女は小さい笑い声をあげて「やだお母さん、夕飯作ってるに決まってるじゃないの」と言うと、ふいに駆け寄ってかがみこみ、冷たい手を塚本・母の額に押し当てた。
「お母さん大丈夫? 畑でだいぶ陽に当たったんでしょう。向こうの涼しいところで休んでいて」
 その言い方もやり様も、あまりに自然で優しかったから、塚本・母は素直に勧めに従うことにした。
 開け放った座敷に横になって、女が当ててくれた濡れタオルを顔にのせ、扇風機の風に当たっていると、夫が畑から戻った。
 その時には既に夕飯の支度が整い、卓袱台ひとつでは足りなかったらしく折畳み式のちゃちなテーブルも動員されて、それらの上には見慣れぬ料理が満載されていた。


 その夕暮れ、ハンスは帰り道を行進していた。
 何度となく耳にしているうちに、あの歌を覚えてしまったのだ。かなり怪しい部分もあったが、ひとりで歌って行進するには差し支えなかった。
 この日は架空のタペストリーではなく、大きな羽根飾りのついた架空の帽子を振っていた。シェイクスピア劇に出てくるナポリやミラノの貴公子はこんな帽子をかぶっているんじゃないかしらん。シェイクスピア劇は勿論のこと、どんな芝居も観たことはなかったけれど、きっとこんな帽子に違いない。赤い火をふく あの山へ――

 三日月が、まだ青さを残す東の空にかかり、ハンスが歩くのに合わせて揺れていた。

 とてもいい気分だ。塚本さんが「よし!」と言った。「よし!」は褒め言葉であると解釈した。褒めてくれたのは初めてだった。嬉しかった。褒めてもらうのが目的で手紙を読んでるわけじゃないけれど、毎日毎日怒鳴られたり貶されたりばっかりだったから、褒められたのは嬉しかった。のぼろう のぼろう――

 明日あたりユリスはゲルハルトさんを捜す旅に出るだろう。凛として美しく、大きく見開いた眼は真っ直ぐに前を見て。
 ぼくはこうして羽根飾りの帽子を打ち振ってユリスの出発に声援を送ろう。
 いい気分の時に考えると、あれもこれも良く思えてくる。小屋へ通うのだってそれなりに楽しい事に思えてくる。あの小屋はまるで――ここは地獄の釜の中――みたいに暑いし、塚本さんは物凄く注文が喧しくて、手紙を読むのも一苦労だけど。覗こう 覗こう――
 ぼくが手紙を読んでいる時の塚本さんの通常の体勢、あののしかかってくる体重にも慣れたし――登山電車が出来たので――ゴリゴリ押しつけてくる各種の骨の感触は一途の証、ぼくの肩にかけた両手の握力が時に激痛を伴うほど強くなるのも一種の励ましと解釈可能だ。――誰でも 登れる――全体として、塚本さんと小屋で過ごす時間は、苦痛よりは快感に、嫌悪よりは興味深さに近づきつつある。

 この結論にはハンス自身がびっくりして目を真ん丸にした。次いで、笑い崩れ、いよいよ嬉しくなり、なおも声を張り上げて行進した。
 ゆこう! ゆこう! あの小屋へ! ゆこう! ゆこう! あの小屋へ!
「おい」と、頭上から声が降ってきた。
 ハンスはその場に倒れ臥した。突然の恐怖と恥ずかしさに打ち倒されたのだ。
「おいおい」と、面食らった声が地上に下りてきて、ハンスの顔の上にかがみこんだ。
 目蓋の隙間から、頭に三日月を戴いた男の顔がうっすら見えた。危険な人間には思えなかったので、そのまま寝た振りをした。今は何より、恥ずかしさが勝っていた。
「ごめんね。だいじょぶ? おれ蜻蜒淵だけど」
「大丈夫です、まったく」唇をほんの少しだけ開けて、答えるともなく答えた。
「ほんとに?」
「本当です」
「じゃあ起きたら?」
「なぜです?」
「だって道の真ん中だもん」
「誰か来ます? 自動車とか?」
「そうじゃないけど」
「じゃいいです、このままで。あなた、なんですか?」
「蜻蜒淵」
「ヤンマブチはさっき聞きました。ぼくに何かご用でも?」
 蜻蜒淵は仕方なく地面にべたりと座った。「おまえさ、おれたちの音楽、好き?」
 ハンスは寝た振りのまま仰天した。このヤンマブチという男は四つの影のひとつだったのか! それでもやっぱりほとんど口を開けずに答えた。「嫌いじゃないです」
「おまえさ、四色畑の小屋に毎日いるの?」
 それが何だというのだろう? 「います毎日。午後から夕方まで」
「小屋でなにしてんの?」
「言いたくありません。言っても、ややこしくて判ってもらえないと思います」
「ふうん。まあいいや。おまえさ、おれたちの音楽、邪魔? ほら、おれたちさ、音楽しながら四色畑をぐるぐるまわるじゃない? 今日もやったけど」
「邪魔じゃありません」
「じゃあ、いい感じ?」
「まあまあだと思います」
 本当はかなりいい感じだと思っていた。今日、頑張ってシェイクスピア風に読んだ部分には、正直言ってあまり合わなかったけど、普段はかなりいい感じだった。
「じゃあ、これからもときどき音楽してぐるぐるまわってもいい?」
「かまいませんよ、少なくともぼくは」
「ほかに誰かいるの?」
「塚本さんがいます」
「塚本さんて、ひょっとして塚本ヤスエのこと?」
「そうです」
「おまえ、あの小屋で塚本ヤスエと何してんの?」
「言いたくありませんし言っても信じてもらえないと思います。塚本さんにはぼくから訊いておきます、音楽してぐるぐるしてもかまわないかどうか」
「いいよ、訊かなくても」蜻蜒淵は慌てて言った。「塚本ヤスエには訊かないでね、やめろって言うに決まってるもん。あ、それからね、フニクリフニクラばっかりじゃなくて、ほかのもやると思うよ。サンタルチアとかオーソレミオとか。マレキアーレも、もうすぐできるようになるし。じゃあおれ帰るね、晩飯だから」
「さようなら」と言ってから、起き上がるのを三分ほど待つことにした。ヤンマブチさんが遠ざかるまで。 


 塚本家では、三人の夕飯が、滞りなく進んでいた。

 塚本・父は畑から戻るなり、見知らぬ女に「お父さん、おかえりなさい」と言われて、そのまま沈黙し、沈黙のまま食卓につき、沈黙のまま食べ――新式の味付けに戸惑って顔をしかめたり妻の顔をじっと見たりすることはあっても――苦情も詰問も口にせず、所狭しと並べられた皿小鉢の中身はもう三分の一程を残すのみ、というところ。

 見知らぬ女は、極めて普通に話をしながら食べている。お父さんにはちょっと薄味だったかしら? お母さん、これまあまあでしょ? あら醤油差しの調子が悪い。これ、ブイヨンがあればもっといい具合にできたんだけど。お父さん、おかわりは?

 これに対し塚本・母は、既に的確な対処法を見出しており、極めて普通に応答していた。「へえ」とか「はあ」とか「ふんふん」とかの――たまには具体的な質問などすることも忘れず――つまり、ごく世間一般で行われる会話術を駆使しているわけなので、特に盛り上がることもないかわりに齟齬もない。

 見知らぬ女が――いや、じっさいには沙汰家の次男坊の嫁である――我が家の台所で夕飯の支度をし、まるで親子のように食卓を供にしている理由については何一つ語られてはいなかったが、夕飯は問題なく進行しているから、ことさらに不躾な質問などして事を荒立てるのも何やら憚られた。それに、沙汰家の次男坊の嫁なら全く知らない間柄ではないのだし、食卓を共にしたくらいで目くじらたてるのはかえって妙だ。時折り「お母さん」「お父さん」と呼びかけるのが奇異な感じはするが、慣れてしまえばどうという事はない。世の中には「お母さん」「お父さん」を一般的な意味あいで使用する者もいるではないか。あまり好みではないけれど。

 塚本・父は完全に出遅れていた。もう間もなく夕飯は終わってしまうだろう。ふたりの女の自然な態度にくらべて、自分の頑なな沈黙はひどく不自然で嫌味な感じに違いない。 会話の糸口を探して目を泳がせた。小柄な扇風機がまわっており、その近くで蚊取線香の細い煙が立ち昇り、煙の先に三日月を発見した。それでこう言った。
「さっき畑から帰ってくる時な」
「はいはい」間髪を容れず、妻が相槌を打った。気恥ずかしくなるほどの気の入れようだったので、塚本・父は一瞬たじろいだが、気を取り直して続けた。
「例の小僧がな」
「はいはい斜面の家の」
「あれがめずらしく歌をな」
「おや歌を!」
「歌いながら歩いておってな」
「はいはい歩いてね」
「三日月がな」
「おやまあ三日月が」
「こう、空にかかっておる下をな」
「なるほど、下をね」
「こう」と、箸を持った手を振り「大きく手を振ってな」
「はいはい、こう」と、塚本・母も箸を持った手を振った。
「フニクリ フニクラとな」
「赤い火をふく?」
「そうそう、あの山へ、だな」
 のぼろう、のぼろう、と、二人は控えめな声で歌ってみた。なかなか良い調子だったので、そのまま小さな声で歌い続けた。歌いながら、塚本・母は食卓に目を走らせて残ったおかずの量を素早く見てとった。ヤッちゃんの分になんとか足りるだろうと計算した。そういえばヤッちゃんは遅いではないか。いつも今時分は一緒に夕飯を――乱暴な箸使いではあるが――食べているのに。
 塚本・父は真面目な面持ちで、控えめな感じを保ちつつ、歌うことに専念した。
 ふたりとも歌詞は一番しか知らなかったので、一番を何度も繰り返し歌った。

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