『ユリス』九章

 〈船は今、何ごともなかったかのようにニューヨークに向かっている。
 印刷室を占拠していた暴徒たちには解散命令が下され、主だった数人は船底の倉庫に繋がれ断罪されようとしている。罪名は煽動、不法侵入、器物損壊、そして殺人の疑い。無論、彼らに罪はない。
 一等客の連中はいい気なもので、鼻歌など歌いながら裁判の準備をしている。その裁判もまた、あの殺人者が提案したのだ。なんと卑劣なことだろう。
 おまえは何も知らず知らされず、甲板に根が生えたように立っている。何日も。
 おまえが身を投げるのではないかと心配する連中が、交替でなにやかやと話しかけてくる。あまり潮風に当たっているのは体に毒ですよ。わたしの船室でゲームでもしましょう。同じ年頃のわたくしの娘と遊び友達になってくださいな。わたくしのメイドを一人お貸ししましょうか、お返しくださらなくても結構よ。などなど。
 それに、夫を亡くしたおまえの身の振り方については親切な申し出が多数提出された。
 まずはプリンスだ。「ニューヨークへ着いたらホテルのスウィートでしばらく休養していただき、後日改めて二つの城のうちどちらかお好きな方へお送りしよう。暮らしに不自由しない金額の年金もお約束しよう。あいや、施しと思ってくださるな、亡きパンネンシュティール氏と私は盟友の間柄、氏の妻であるあなたの後見は私の義務であり喜びでもあるのです」
 次はインドのマハラジャ。好色な眼をしてこう言った。「とりあえずは、まあ、養女ということでどうでしょう。ゆくゆくはね、もっと、こう、なんというか……」
 例の絵描きもだ。「一緒にニューヨークへ、アートの街へ行きましょう。そして共に、貧乏暮らしを体験してみませんか?」
 ハリウッドの超絶的二枚目氏。「秘書求む。年齢・経験は不問。週休二日。年収応相談。業績次第では共同経営者への道もあります」
 だが、おまえは首を横に振り続ける。
 おまえは何かを待っているのだ。その顔は凛として美しく――〉

「やっぱりね、凛として美しくなくっちゃね。ぼくは、羽飾りの帽子を、こう、振って声援を――」
「黙れハン公!」
 ハンスは縮み上がった。

 この日、塚本ヤスエはひどく不機嫌だった。小屋のなかを往ったり来たり、重苦しいスカートをバタバタ鳴らしてそこらじゅうの埃を舞い上げて歩き回っていた。

 ハンスは声に出して読みたかったけれど、塚本ヤスエはうるさい黙れと言うばかりで許してくれないのだった。ハンスは唇を噛み、黙って続きを読んだ。

〈おまえは何かを待っているのだ。その顔は凛として美しく、眼は大きく見開いて、洋上の一点をじっと見つめている。そして真直ぐに指差し、傍らで心配そうにおまえを見ている事務長に、毅然と言うのだ。
「あれを呼んでください」
「あんな小舟を呼んでなんとなさるのです」
「もちろん乗るのです。夫を捜しにゆくのです」
 甲板は蜂の巣を突ついたような大騒ぎになるだろう。皆が皆、おまえの周囲に押し寄せ、思いとどまらせようとする。しかし、おまえの決意は揺るぎない。
 呼び寄せられた小舟は実に実に小さな舟なのだ。
 楽隊が物悲しい曲を演奏し、細い縄梯子がおまえのために下ろされる。
 一人の貴婦人が走りより、おまえを抱きしめて叫ぶだろう。「ああ、あんな頼りない小舟に乗ってゆくのね、可哀想なひと! きっと死んでしまうわ!」小舟の船頭が気を悪くして甲板を睨み上げているのにも気づかず、なおも叫ぶのだ。「きっと死んでしまうわ! きっと死んでしまうわ!」
 甲板は再び大騒ぎになり、あちこちから悲嘆の叫びや声援や、絶望の呻きが上がるだろう。そして、ああ! この機に乗じてあの殺人者が、誰にも見られることなく縄梯子を下りるのだ。誰にも見られず小舟に乗り移り――〉

「どうやって? ねえ塚本さん、どうやったら誰にも見られず縄梯子を下りることができるんでしょう?」
「知るもんか! 知るもんか!」
 塚本ヤスエは相変わらずバタバタ歩きまわっており、相変わらず不機嫌だった。
「お願いですから塚本さん、すこし落ち着いてじっとしていていただけないでしょうか。ぼく、気が散って困るんですけど」
「知るもんか、あんたの都合なんか!」
 ハンスは少し気分を害した。
「ぼく、ちょっと休憩して、お茶をいただきます」
「ない。お茶はない!」
 そういえば確かに、いつもある買物籠も魔法瓶も見当らなかった。塚本さんがお茶を持って来ないなんて普通じゃない。ハンスは直感した。
「なにかあったんですね?」
 塚本ヤスエはハンスの眼をじっと見ると、いきなり突進して、抱き締めた。ふたりの身長はぴったり同じだった。
「ゆうべ、帰ったら、夕飯は終わってた」ハンスの耳元で、低く低く呟いた。
「おやおや」ハンスは棒立ちのまま優しく囁いた。
「母ちゃんが、これをお食べ、と言って、変なもの食べさせた。ぺっぺっ」
「おやおや、おいしくなかったんですね」
「そうでもない。ぺっぺっ」

 塚本ヤスエの断片的な言葉を繋ぎ合わせ、ハンスは大方の事を理解した。塚本さんはいつもより帰りが遅くなって、残りのおかずを食べたのだ。
「母ちゃんも父ちゃんも何も言わなかった。誰が来たのか。物凄く怪しい」

 塚本さんは残り物を食べるのが嫌いなのだ。ハンスはそう解釈した。蛇の目氏の弁当を思い浮べ、キリン、ブタ、タヌキのうちのどれかひとつ、そう、タヌキを塚本ヤスエに提供してもいいと思った。今日はもうだめだけど、そうだ、明日そうしよう。蛇の目先生のお弁当は残り物じゃなくお裾分けなのだから。

「夜じゅう考えた。誰が来たのか。だから、昨夜は台無しだ。お茶を煎じる暇もなし!」「なるほど。タヌキでいいですか?」
「お茶がないと、ここは辛い。暑いだろ?」
「今日は間に合いませんけど、明日。タヌキが嫌ならキリンでも?」
「あんたには辛いだろ?」
「でも、塚本さんが今夜の夕飯に間に合えば、タヌキもキリンも必要ありませんね」
「だから場所探しをしてたんだ。それで夕飯に間に合わなかった」
「ぼくのために?」
 ひたと抱き合っているにしてはちぐはぐだった会話が、ここでぴたりと合った。
「まあ、そういうこった」乱暴に体を放して言った。「だめだったがね」

 昨日、小屋を出たその足で、塚本ヤスエは桃の里集会所を下検分に行ったのだ。しかし、やはり、ピンクのチョキだかナメクジだかの下で大事な手紙を読むのは適切でないと考えた。悪いことに三日月がオブジェに突き刺さり、ピンクのそれはおぞましくもぶるぶる震えて見えたのだった。
「中はまあまあだけどさ、上のアレがさ、どうにもさ。ぺっぺっ。またほかを探すよ」
 そう言うと思い切りよく立ち上がり、「本日はこれまで!」と、いつも通りの終了宣言をした。
「ちょっと待って。続きをやらせてください」
 ぼくのために場所を探してくれていたのだ。ぼくのために。ハンスは感動していた。
「暑いし、お茶もないこったし、今日はもういいよ」
「いいえ、やらせてください」
「やに強情だねハン公」塚本ヤスエは嬉しそうに言った。機嫌は直ったらしかった。
「えーと、とりあえず、殺人者がどうやって誰にも見られず縄梯子を下りることができたのかは気にしないことにしましょう」
「いいともさ」
 ハンスは心をこめて読みあげた。

「―――あの殺人者が誰にも見られず縄梯子を下りたのだ。誰にも見られず小舟に乗り移り、怪訝な顔をしている船頭にニヤリと笑いかけ、都合良く放り出してあった麻袋を被って身を潜めたのだ。
 そんなこととは露知らず、おまえは風に揺れる縄梯子をそろそろと下りてゆく。
 楽隊の演奏は、水葬を送るかのごとく、いよいよ哀切を極めて、甲板に居並ぶすべての眼に涙滂沱としてくだる。
 殺人者は何故危険な小舟に乗ったのであろうか? 俺の妻である以上、己れの秘密をおまえもまた知っていると思いこみ、こっそり命を狙う算段。
 ああ! おまえはすでに縄梯子の半ばまで下りている。
 殺人者は麻袋の中で奸計を練っているに違いない。小舟が遠くへ行ってから、どうにかしておまえを海に突き落とし、船頭には大金を握らせておいて、あれは悪性の女であったぐらいの事を言っておけば事は顕れずに済むだろうと。
 とうとうおまえは小舟にたどり着き、奴の潜むすぐ傍に降り立った。
『じゃあ出しますぜ。よござんすか嬢ちゃん』船頭が下衆に笑い、今しも縄梯子が上げられようとする刹那、
『あいや、お待ちくだされ、お待ちくだされ』と、登場したのは誰あろう、あの時の老紳士。おまえは覚えているだろうか。出航の日、帽子を弾き飛ばされた御仁だ。その帽子を拾ってやったのはおまえではなかったか。
 老紳士はあたふたと縄梯子を伝い降り、おまえは親切にその手を取って小舟に降ろしてやるのだ。
『いやはや』とハンカチを取り出して汗を拭きつつ、麻袋の上に痩せた尻を落ち着けて、『旅は道連れとか申しますのでな、ひとつよろしく』と言った。
『まあ、あなたはあの時の』
『はいはい。覚えておいででしたか』
『嬉しいわ。頼もしいわ。男の方がご一緒してくださって』
『いやはや、この老いぼれにナイトの役が勤まるなどと自惚れてはおりませんがな、まあ、ひょっとして悪心を抱く輩が現れでもしたら、この老体、鉄砲の弾除けぐらいにはなりましょう』
 自分の尻の下の悪計を知ってか知らずか、老紳士はこんな事を言って笑うのだった。
 しかし、殺人者の目論みは挫かれたのだ。船頭ならともかく、この老紳士を金と嘘で丸め込む事はできまいし、また、二人殺すのもうまくない。麻袋の中で老紳士の重みに耐えながら舌打ちをしたのは言うまでもない。
 殺人者の思案はつかぬまま、船頭は小舟を漕ぎ出した」

     マレキアーレに月が昇ると
     魚でさえ恋をする。


 桃の里集会所では新しい曲が完成しつつあった。
「トラージョ、もっと派手な感じで歌ってもいいよ」と尾花が言った。
「そだねオッハナ」と重々しく虎松が頷いた。
 蜻蜒淵が体を揺すりながら訊いた。
「オッハナ、おれもっとレロレロな感じでやっていい?」
「いいねいいね、そうしてくれヤンマーノ」尾花はヤンマーノのマンドリンが本当に好きだった。
「いいねいいね、じゃわたしもレロレロな感じにしよう。いいだろオッハナ?」局長も乗りに乗っていた。
「いいねいいね。キョクチョリーノはトラージョと一緒に歌うところがあってもいいね」 キョクチョリーノがアコーディオンだけでなく声もなかなかすてきなバリトンであることをオッハナはよく知っていた。
「歌う? じゃ歌おかな。わたしどこ歌おかなトラージョ?」
「そだね、魚でさえ恋をする、だねキョクチョリーノ」
「わかった。魚でさえ恋をする、だね」
 ふたりは試しに、魚でさえ恋をする、と歌ってみた。とてもいい感じだった。
「どう? オッハナ?」とキョクチョリーノ。
「すごくいいね。じゃあ最初からやってみようか」
 四人は最初から最後までやってみた。
 すごくいい感じだった。
 ヤンマーノのマンドリン、キョクチョリーノのアコーディオン、そして変幻自在のテノールはトラージョ。それらの個性に比べれば、オッハナのギターは平凡だった。尾花はそのことを知っていた。それでも少しもかまわなかった。三人は何事も尾花の意見を聞きたがったし、尾花の意見はいつも大切にされた。
「きのう斜面の家のやつに会ったよオッハナ」と蜻蜒淵が言った。
「なんか話をしたの?」
「うん、した。変なやつだった」
「よく泣くヨ」と、威厳のある貌に珍しく笑いを浮かべて虎松が言った。
「泣くの? きのうは地べたに倒れてた」
「どうかしたのかい?」と心配そうに局長が言った。
「いや、ただ地べたに倒れたまんま話をしたよ。おれたちの音楽は嫌いじゃないって。ぐるぐるまわっても別にかまわないって」
「やっぱり聴いてたんだね、小屋の中で」局長が嬉しそうに言った。
 四人は暫らく、年齢にも容貌にも似合わないクスクス笑いをして互いを小突き合った。 尾花が言った。
「じゃ、この次はマレキアーレを持って行こう」
「イヤッホー!」とヤンマーノが叫んだ。

 三人が帰って行ったあと、尾花は入り口の小さなロビーから調べはじめた。誰にも言わなかったが、この日来た時から気づいていたのだ、何者かが侵入した形跡があることを。 四人のものでない泥靴の足跡は、ロビーから始まってかなりの大股で階段を駆け上がり、二階の廊下を行ったり来たりしたあと、再び大股で階段を駆け下りていた。微かな足跡であったにもかかわらず、この建物に対する只ならぬ拘泥が追跡を可能にしたのだ。

 やはり昨夜、誰かが侵入したのだ、とひとり頷いたが、そもそもここは集会所なんだから誰が来ようと使おうと問題はないのだと気づいた。そのために建てたのだ。今まで四人以外に使う者がいなかっただけで。「侵入」というのも不適切な表現であった。

 不審が期待に変わった。誰かがここを使おうと下見に来たのに違いない。誰かが桃の里集会所を利用しようとしている!

 それからの数日、塚本ヤスエは毎夕場所探しに出かけてゆき、つまりは毎晩夕飯に遅れ、どうやら誰かが毎晩の夕飯を作って一緒に食べて帰るらしく、しかし、その誰かが沙汰砂子であるらしいことは薄々察してしまったのか、半ば意識的に遅れて帰るようなのだった。が、もちろんハンスに塚本家の詳しい事情がわかるはずもなく、場所探しの件に関しても塚本ヤスエは、だめだったね程度のことしか言わなかったから、とりあえず昼弁当のキリン、ブタ、タヌキのうちからひとつを持って小屋に通うようになった。

 結局のところ、ユリスを乗せた小舟は何の問題もなく、つまり誰一人海に落ちたり殺されたりせず、悶着もなく、ある小さな島にたどり着いた。
 老紳士は、あっさりしたもので、「それじゃ私はこれで」と小舟を降りて行こうとした。
「あ、もし。これからどちらへ?」ユリスは呼び止めた。
「さあて、私はどこへ行くんでしょうな」
「もしもわたしが旅に行き悩み、どうにも思案に余ったら、あなたをお訪ねしてもいいかしら。あなたは誰で、何をなさっておいでなの?」
「私の名前も職業も、残念ながらお教えできませんのです。なにしろ当の本人にも、いったい自分が誰で何をする人間なのか教えてやることができないぐらいでしてな。それに、あなたなら大丈夫、うまくおやりなさることでしょう」
 老紳士はどんどん行ってしまった。
 ユリスは、船頭に訊いてみた。
「もし、船頭さん、あたしの夫をご存じない?」
「さあてね」船頭は考えようとしたが、考える材料が殆どないことに思い当り、訊き返した。「あんたの連れ合いがどんなひとか教えてくれないかね?」
「そうねえ」今度はユリスが考える番だった。「どういえばいいのかしら、とっても、つまり独特なひとなの」
「独特なひとだって?」船頭はポンと膝を打ち、「そんなら隣の島にいるはずだよ。独特なひとが流れ着いたって噂を聞いたよ船頭仲間に。隣のアンティグア島へはピョイとひと跳びだよ」
 ユリスは礼を言って駆けて行った。
 殺人者はといえば、麻袋の中で半ば気絶していた。無理もないのだ、老紳士の尻の下でずっと耐えていたのだから。船頭がニヤつきながら乱暴に麻袋を蹴飛ばしたおかげで、やっと正気に返った。
 殺人者は慌ててユリスを追って行った。
 ユリスは何も知らなかったが、そこは小さな島々が首飾りの宝石のように連なった場所、小アンティール諸島の端あたりであるらしかった。

 手紙のこのあたりの記述はどことなくぞんざいで精細さに欠けていたため、ハンスは音読する気にもなれず、ただ右から左へと読み飛ばしていった。

 ユリスはピョイとひと跳びで隣のアンティグア島へ着いた。
「ねえ、ちょっとお尋ねします。この島に流れ着いた独特なひとは今どこに?」
 海辺で網の繕いをしていた漁師の女房が答えた。
「ああ、独特なひとは確かにこの島に流れ着いた。死にかけていたが生きていた。助けたのは余所者の女だった。三晩ここの宿に泊まって四日目には島を出ていった。もうかれこれ三週間になる。確かマルチニークへ行ったはずだ。マルチニークへはこの先の岬からピョイピョイピョイだよ」
 ユリスは礼を行って岬へ駆けてゆき、ピョイピョイピョイと三回跳んでマルチニークに着地した。そこは花の島であった。あらゆる場所に花が咲き、あらゆるものが花で飾られていた。大きな籠一杯のトロピカルフラワーを差し出す美しいひとに、ユリスは言った。
「お花はとても好きだけど、今は急いでいるの。独特なひとは今どこに?」
 美しいひとは残念そうに答えた。「独特なひとはバルバドスに行ってしまったわ。バルバドスはここから大きめのピョイッピョイッよ」
 大きめのピョイッピョイッでバルバドスに右足をかけようとして、危うく海に落ちそうになったので怖くなり、まずは声をかけてみることにした。
「オーイ。そこに独特なひとがいるでしょう? いるんだったら頑張ってそこへ跳ぶつもりなの」
 砂糖黍畑の間から一人の農夫が伸び上がり、答えた。
「独特なひとはもういないよ。グレナダへ行くって言ってたよ。それにあんた、こっちへ来ちゃ駄目だよ、悪い奴があんたを殺そうと待ち伏せている」
 農夫の背後にあの殺人者がぬっと顔を出し、ユリスの方を見てニヤリと笑った。親切な農夫は告げ口したために殺された。
「ああなんて酷い。さようなら親切で可哀相なひと」ユリスは急いでその場を離れた。
 グレナダまでは跳ぶというよりスキップで楽勝だった。
 背後に注意を払いながら、急いで訊いた。「独特なひとは今どこに?」
「独特なひとはもういないよ。あのひとはここグレナダにたったの三分しか滞在しなかったよ。ここは観光地じゃないからね。トリニダドへ行ったんじゃないかな。あそこはとても賑やかな島だから。トリニダドへは助走ジャンプじゃないと行けないんだが、あんた助走ジャンプは出来るかい?」
「ええ、たぶん」そう言って振り返ると、殺人者が遠くで難渋しながら追って来るのが見えた。殺人者はスキップが苦手らしかった。ユリスは慌てて礼を言うと思い切って助走ジャンプを試みた。
 うまくいった。トリニダドはほんとうに賑やかな島だった。人々は全員、スチール・ドラムを叩いてカリプソを歌うのに忙しそうだったけれど、ユリスの質問に交代で答えてくれたのだった。「独特なひとはもうここにはいないよ」「ブラジルに行くと言っていたよ」
「なんでも連れの女の家があるそうなんだよ」「まずは南米大陸へピョイッと跳びなよ」「着地には気をつけなよ、そこはオリノコの河口だから足が濡れるかもしれないよ」
 背後で悲鳴と派手な水音がした。振り返ると殺人者の姿はなかった。殺人者は助走ジャンプのやり方を知らなかったに違いない。
 ユリスは慎重にピョイッとオリノコの河口に跳んだ。
 跳ぶのも助走ジャンプもこれでおしまい。あとは海岸に沿ってずっと南へ歩いて行けばいい。ブラジルは遠いらしいが、辛抱して歩いていればいつか辿り着くのだ。

 塚本ヤスエが意味ありげな横目でハンスを見て言った。「このあたりを書いてるときゲル親爺は頭に来ていたからね、いい加減な書き方になっちゃんたんだろ」
 いかにも何か質問してほしい様子だったので、ハンスは質問した。
「というと?」
「というのはだね、沙汰達人のやつがあたしに結婚を申し込んだからだ。ふふん。正確に言うと父ちゃんと母ちゃんに申し込んだ、正式にな。父ちゃんと母ちゃんは大喜びしてあっちこっちに吹聴してまわったからゲル親爺の耳にも入ったさ。あたしがまた、すぐには断らなかったから、ゲル親爺は頭に来てたと思うよ。ふふん」
「沙汰達人てひとと結婚するつもりだったんですか?」
「まさか。するもんか」
「じゃ、なぜすぐに断らなかったんです?」
「仕返しさ、イル・ド・フランスの」
「なるほど……。ねえ、塚本さん、ぼく、ずっとゲルハルトさんの手紙を読んできて思うんですが、ゲルハルトさんは本当に塚本さんと結婚したかったんでしょうか」

 塚本ヤスエはハンスの頭をどやしつけた。けれどもハンスは平気だった。近ごろではこうした暴力にも理不尽な物言いにも慣れて、動揺することもなくなった。当面の問題は手紙そのものなのだ。くだらなくて滅茶苦茶な記述を読み進むのは辛い作業だった。

 殺人者も殺人者だ。ハンスは歯がゆかった。ユリスの命を狙っているにしては工夫も機転も何もない。間抜けな失敗ばかりして、こんな様子じゃ命どころか服のリボンにすら手が届かないのは当然だ。しつこいだけが取り柄のような男だ。そういえば、出航のとき殺人者を狙った女の人はどうなったのだろう。鉛入りの鮮やかな黄色のテープを投げたあのひとが再登場してくれるといいのに。そうすれば間抜けな殺人者も少しは気持ちを引き締めて的確な行動をするようになるかもしれない。

「この殺人者、あんまり間抜けで可哀想に思えるほどです」
「だろ? ほんにあいつはどんくさい」塚本ヤスエは楽し気に笑った。
 塚本ヤスエはハンスの背に覆いかぶさり、これら馬鹿げた記述を概ね熱心な態度で見つめていたが、時折り顔を上げて窓の方をじっと見たりもした。このところ四色畑に沙汰夫妻の姿はなく、真っ赤な軽四輪も停まっていなかった。かわりに例の四人が音楽をしてぐるぐる回っていた。たいていは、マレキアーレに月が昇ると魚でさえ恋をする、と歌っていた。
 便箋から目も上げず、うるさいですか、と訊いてみた。ずっと気になっていたのだ。
「ああうるさいね。うるさいけど、やめろというつもりはない。うるさいけど、嫌いじゃないね」と、そっけない答えが返ってきた。
「こないだヤンマブチってひとに訊かれたんです、音楽しながらぐるぐるしてもいいかって。ぼくはかまわないけど、塚本さんはどうだろうと思ってたんです」
「蜻蜒淵だって?」
「はい。ヤンマブチさん」
 塚本ヤスエは窓へ行き、「じゃあ、あのなかに蜻蜒淵がいるのか」じっと目を凝らしたが、汚れた窓からは誰が誰やら判るはずもなかった。
「はい。ヤンマブチさんをご存じなんですか?」
「知ってる。よーく知ってる」それぎり塚本ヤスエは何も言わなかった。


 ある日、音楽をしてぐるぐるしていた四人の足が一斉に止まった。音楽ももちろん止まった。遠くに何か異様な気配を感じたのだ。

 八月の最後の太陽の下を、蒼白の顔をした女が汗もかかずに歩いていた。時折り熱風が女の髪を吹き上げて、あたかも吹雪の中の雪女の様に見せたが、女は両脇で堅く握りしめた拳を動かすこともせず、重々しく静かに、林を抜ける畔道を歩いていた。
「あれは沙汰さんとこの奥さんじゃない?」と蜻蜒淵が素早く見抜いた。
 四人はただ黙って、女が近づいて来るのを眺めていた。
 女は、四人の視線など、まるで存在しないかのように歩いていた。


 ハンスは先刻から落ち着かない気分だった。何かが足りないのだ。そうか、マレキアーレが聞えなくなっていたのだ。今日はもうやめちゃうんだろうか、ずいぶん早いな、いつもは夕方暗くなる少し前までぐるぐるしてくれるのに。残念だな。
 この数日のハンスにとってマルキアーレは一つの救い、つまらない旅に精彩を与えてくれる唯一のものであった。
 塚本ヤスエがふいに立ち上がった。背中の重量が消えた頼りなさに、ハンスは咎めるように振り返って見た。
 塚本ヤスエが見つめている西側の窓に、白いものがべたりと貼りついていた。ハンスは仰天して、腰かけたまま腰を抜かした。白いものは人の顔であった。その証拠に二つの光る眼がキョロキョロ小屋を見回しているのが、曇りに曇ったガラスを通してさえ見えたのだ。白い顔は五分ほども貼りついていた後、ふっと消えた。
 塚本ヤスエはどういうつもりか木箱を一箇所に集めはじめ、「どきな」とハンスの耳元で囁いた。ハンスは困ってイヤイヤをした。腰が抜けたままなので動けなかったのだ。
 白い顔が南側の窓に貼りついた。眼をキョロキョロさせて。
「しょうがないね」と呟いて、塚本ヤスエは三つの木箱をハンスのまわりに集め、小屋の隅から藁筵を三枚引っ張り出して、ハンスごと木箱を覆った。藁筵を通して「やつが来た。夕飯の女が」という塚本ヤスエの不吉な呟きが聞えた。ハンスは藁筵の破れ目から外を覗いた。
 白い顔が、今度は東側の窓に貼りついた。
 塚本ヤスエは買物籠からタオルを出し、両手でピンと張って身構えてみたり、レース編みの日傘を振り上げて、二度三度強く振ってみたりしたあと、小屋の隅へゆき熊手を持った。錆びてなお、鋭さを保った熊手だった。応戦の準備をしているらしかった。
 東側の窓から白い顔が消え、間もなく、ガタガタと扉を叩く音がしはじめた。
 塚本ヤスエは扉の前に、適切な距離を置いて立った。
 ハンスはようやく藁筵から這い出し、熊手を構えた塚本ヤスエの背後についた。
 扉を叩く音は次第に激しくなってゆき、叩くというよりは揺さ振っているようで、ちゃちな閂は飛び跳ね、今にも外れそうだった。
 塚本ヤスエが背後に向かって低く呟いた。「開けな」ハンスに命令したのだ。
「ぼくが? まさか」
「開けな」塚本ヤスエは身構えたまま、低くくり返した。
 扉は、否、今や小屋全体が鳴動していた。ハンスは完全に怖気づいて、塚本ヤスエの背中から離れることなどできなかった。
 バキ、と嫌な音がして、次の瞬間、轟音とともに粗末な扉は内側に倒れた。壊れた扉は塚本ヤスエの足先に届く程だったが、熊手を構えて立ったまま、眉一本動かしはしなかった。
 沙汰砂子も、息ひとつ乱さず立っていた。沙汰砂子は素手で立っていた。
 外は陽光降りしきる午後。ナポリタン・カルテットが一塊になって見ていた。
「この小屋から出てってくださらない?」と沙汰砂子は優しい声で言った。
「小屋じゃなくて納屋だ」と塚本ヤスエも負けてはいなかった。
「とにかくここを出てってくださらない?」
「断る」
「だってこの小屋、じゃなく納屋?」と言いにくそうに眉をひそめ、「この納屋、は、あなたの所有じゃないでしょう?」
「畑は父ちゃんと母ちゃんがあんたんちの馬鹿野郎に売り飛ばしたが、この納屋は売っちゃいない」
「でもね、この納屋? は、うちの馬鹿野郎が所有する畑の上に建ってるの。まん真ん中に建ってるものだから作物に陽が当たらなくて困っているの」
「あんたんちの馬鹿野郎の作物なんか知ったこっちゃないね」
「うちの馬鹿野郎の作物ばっかりじゃないわ。わたしが育てている野菜もあるの。あなたのお父さんもお母さんもいいひとだけど、どうしてまた畑のまん真ん中にこんな、納屋? なんか建てちゃったのかしら」
 と、沙汰砂子は片方の掌を頬に当てて首を傾げた。
「うちの父ちゃんと母ちゃんの話をするな!」
「とにかくね、もうじき取り壊すつもりでいるの」
「あんたんちの馬鹿野郎がそう言ってんのか?」
「ううん、うちの馬鹿野郎はこの際、関係ないわ。あなたも農家のひとならわかるでしょ、野菜に陽が当たらないと困るってことくらい」
「わからないね。あたしは農家のひとなんかじゃないからね。現在、世界を股にかけて旅行中の自由人なんだぞ!」
 無茶苦茶な理屈にハンスは肝を冷やした。
「自由人ならなおのこと、どこへでも好きなところへ出て行けばいいじゃありませんか」 形勢不利になって、塚本ヤスエは怒鳴った。「出ていく気は金輪際、ない!」
「でも、少し考えておいてくださらない?」沙汰砂子は執拗だった。
「考える気も、金輪際、ない!」とどめを刺したつもり。
 沙汰砂子は、ほう、と丸い溜め息を吐いて、「困ったわね。でもいいわ。もしかしたら、わたし、あなたと少し話をしてみたかっただけかもしれないの」
 あまりに意外な展開に、塚本ヤスエは言うべき言葉を失った。
 沙汰砂子は「さよなら」と優しく言って立ち去った。立ち竦んでいるナポリタン・カルテットのすぐ傍を通って行ったが、やはり目もくれなかった。小屋全体を揺るがせ扉を蹴破った人物とは思えない穏やかな静かな後姿であった。
 どちらが勝ったとも負けたとも言い難かった。
 塚本ヤスエは熊手を構えたまましばらく立っていたが、突然、背後のハンスを突き飛ばし、壊れた扉を踏みしだいて外へ飛び出した。
 茫然と立っている四人を順ぐりに睨みつけておいて、やおら蜻蜒淵の頭を殴りつけた。「馬鹿、蜻蜒淵! こういう時こそ景気のいいのをやって加勢してくれなきゃだめだろ! なんのための音楽か! 馬鹿蜻蜒淵!」
 蜻蜒淵は慌てて、訳も判らずマンドリンを弾こうとした。
「馬鹿! もう遅い! もう終わったんだ! 役立たず! この穴埋めは必ずしてもらうからね、覚えておけよ蜻蜒淵」
 言うだけのことを言い終えると、くるりと踵を返して小屋の方へ戻って行った。
 激情にまかせて怒鳴っているようではあったが、塚本ヤスエの心の奥底では微かな計算が――本人も気づいていなかったのだが――働いていた。
 遅蒔きながら三人は、蜻蜒淵を庇うように取り囲んだ。蜻蜒淵は泣いていた。
 ハンスは外の怒鳴り声を聞きながら震えていた。ヤンマブチというひとには他人事でない同情を感じていた。


 翌日の朝、蜻蜒淵と尾花が壊れた扉の修理をしていた。
 空は煌めき、鳥が鳴き、昨日の事件など嘘のように――事件? 果たしてあれは事件だったろうか? 尾花はクスリと笑った。だが、確かに扉は壊れ、それを蜻蜒淵と二人で修理しているのだった。
「ごめんね尾花さん、つきあってもらっちゃって」
 昨夜遅く、蜻蜒淵は塚本ヤスエに扉の修理を命じられ、尾花に相談に行ったのだ。
「ごめんね尾花さん、おれぶきっちょだからね、こういうのうまくないんだ」
 尾花は自慢の工具箱持参であった。
「蜻蜒淵くんが壊したわけでもないのにね」
「しょうがないんだ。穴埋めしろっていうんだ塚本が。いいんだ、おれは。塚本には慣れてるから。子供の時からだから」

 尾花は丁寧に仕事をしていった。工具箱はきらきら光って中身はよく整理されていた。「塚本ね、幼稚園の頃からおれをいじめてんだよ。幼稚園の頃から乱暴で、強引で、気紛れなんだ塚本って。おれのほうが三つか四つ歳下だから、同じ幼稚園通ってたり同じ学校通ってたりするわけでもないのに、わざわざおれんちのそばまできて、いじめんの。おれはなるたけでっくわさないように気をつけてんのに、会っちゃうの。で、いじめんの。殴ったりもするんだけど、それより、なんていうの? 難問? ふっかけておれを困らせるのが好きなの塚本。一度なんかね、小学校の二年のときかな――塚本は六年だったかな――おれんちのトラクター運転させろっていうの。トラクターは一応自動車だからね大人で運転免許持ってる人でないとダメだよって言ったら『免許はあたし! あたしが免許!』って訳のわかんないこと怒鳴って、おれを突き飛ばして乗ったんだ塚本。そしたら、案の定だよ、よその田圃におっこちてさあ。田圃ぐちゃぐちゃ。おれ、親父に物凄く怒られた。トラクターに乗ってたのが塚本だってことを、おれ、親父にどうしても言えなくてさ。だって、ほら、告げ口でしょ、それ。告げ口したこと塚本にバレたら仕返しされるもん、絶対。親父、その時おれに言ったんだよ、生涯おまえはトラクターにも自動車にも乗ってはいかん、免許も取ってはいかんって。今じゃ親父、言わなきゃよかったって後悔してると思うよ。おれが免許持ってないと、畑をやるんでもいろいろ不便なこと多いもん。でも絶対取り消さないの。おれんちの親父、知ってるでしょ? 物凄く頑固だからね。ずっと昔のことなのに、絶対取り消せないの。だからおれ、運転できないの」
 尾花ひとりの手と自慢の工具箱によって、扉の修理も終わりつつあった。
「こないだの晩、斜面の家のやつに会ったとき、塚本も一緒に小屋にいるって聞いたから、やな予感はしてたんだけど、こんなことになっちゃって、ごめんね尾花さん」


 ハンスがいつものようにキリンの弁当箱を持って小屋へ行った時には、扉はすでに修理が完了し、辺りには誰もいなかった。

 扉は閉まっていた。ハンスは扉を開けるのをためらった。自分の手で小屋の扉を開けたことは一度もなかったのだ。塚本ヤスエが先に来ている時には扉は開放されて、足踏みしながら苛々と手招きしている姿が見えるのが常であったし、もしハンスが先なら扉には大きな南京錠がかかっていたから開けることはできなかったのだ。
 が、今は錠前はない。扉は閉まっている。妙な気配だ。

 ハンスは窓にまわって中の様子を見ることにした。窓から一生懸命目を凝らすと、塚本ヤスエが見えた。なあんだ、先に来てたのか。塚本ヤスエの前にはハンス自身の姿も見えた。ん? ぼく? 塚本ヤスエはいつもの通りハンスの背中に覆い被さって手紙を見つめているらしかった。ハンスは当然、腰を抜かした。この場を一刻も早く逃れようと、必死に地面を這い進んだ。

「待ちな」と、背後から声がかかった。
 扉を開け放ち、塚本ヤスエが笑って立っていたのだ。
 小屋の中には、改めて見るとずいぶん粗雑な藁人形が二体、塚本ヤスエとハンスにそれぞれ似せて拵えてあった。材料は藁筵と塚本家の古着であった。
「ふふん。似てるだろ」得意げに塚本ヤスエが言った。「さあて、準備もできたから引っ越しだよ」
「引っ越しって?」
「ここを出ていくんだ。前から言ってたろ、ほかの場所を探すって。手紙の箱を運ぶんだから手伝いなハン公」
「でも、きのう、言ってたじゃありませんか、金輪際出ていく気はないって」
「あの女にそう言ったまでだ」と、藁人形を眺めてほくそ笑んだ。「あの女はあたしとあんたがずっとここにいるって思うだろうさ。ふふん。ここを取り壊すなんか絶対させるもんか。ふふん。あたしたちは広々して涼しくて気持ちのいいところへいこうなハン公」
「じゃあ、いい場所が見つかったんですね?」
「場所は見つからない。でも、もっといいもんが見つかった」
 蜻蜒淵家のトラクターを運転して来たのは尾花であった。蜻蜒淵は助手席で小さくなって「困ったな困ったな」と呟いていた。
 四つの木箱がトラクターに積まれ、幾重にも鎖を掛けられた。
 尾花が訊いた。「あんた免許あるのかい?」
「免許はあたし! あたしが免許!」晴れ晴れと叫んで、塚本ヤスエはトラクターに飛び乗った。助手席から蜻蜒淵が転げ落ち、なおも「困ったな困ったな」と呟いていた。

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