『ユリス』十章

 川辺は涼しい風が吹いていた。
 ナポリタン・カルテットの四人は並んで立ち、気持ち良く音楽していた。
 四人の後方には蜻蛉淵家のトラクターが停めてある。

 蜻蛉淵はトラクターを持ち出した件でおっかない親父にこっぴどく叱られたが、なんとか交渉してしばらく使わせてもらえることになった。塚本んちのじゃじゃ馬が使うんだとはやっぱり言えなかったけれど、尾花が一緒に頼んでくれたおかげでおっかない親父も納得したのであった。どこでどう習得したものやら塚本は鮮やかな運転をした。少々乱暴ではあったが尾花よりいい腕になっていた。

 少し離れた木陰では、ベンチ代わりに木箱を二つ並べ、塚本と斜面の家の若いやつが何やら読んでいるらしかった。四人は許しを得てここでで音楽することになったのだ。もうぐるぐるする必要もなく、いい環境で落ち着いて音楽することができたし、斜面の家の若いやつも目の前にちゃんと見えているのでやりやすかった。斜面の家の若いやつの横に必ず塚本がいるのはちょっと気になったけれど、そもそも塚本のことが嫌いというわけではなかったので、なるたけ気にしないように努力していた。

 虎松は《おまえにくちづけを》を歌っていた。この川っぷちではじめて音楽することになった日、斜面の家のよく泣く若者が言ったのだ、「虎松さんだったんですね! 虎松さんの声だったなんて、ぼくぜんぜんわからなかったなあ!」と。なんとなく嬉しかったので、このところ毎日奮発して、つまり、これ以上はないほど甘ったるい声で、お前の吐息のなかで眠りたい、と歌っていた。それは恋の歌だった。

 木陰のふたりは仲睦まじい恋人みたいにぴったりくっついて座っていた。ただ、塚本んちの娘はときどき若者を殴りつけたりもするので、そんなときは《おまえにくちづけを》じゃまずかったかな、と尾花の顔をそっと伺ってみるのだが、尾花はいつも静かに楽し気にギターを弾いており、やはりいいのだこのままで、と安心するのであった。

 ハンスにとってもここはとてもいい環境だった。堪え難く暑い空気で澱んでいた小屋に較べたら天国といってもよかった。木陰は涼しく、川浪はきらきらして美しかった。時折り吹く気持ちのいい風が、手にした便箋をはためかした。それにしても、問題はその便箋に書かれた内容だった。

「ねえ塚本さん、どこまでこの調子で行くんでしょうか」
「辛抱しな。もうじきだよ」

 ユリスは相変わらず、南米大陸を海に沿ってとことこ歩いていた。南米大陸はさすがに大きく、歩いて行くにはブラジルはなかなか遠かった。
 時々人に出くわすと、必ず「独特なひとを見ませんでした?」と訊いた。独特なひとがブラジルに行ったことは既に知っていたので、これは惰性の質問に過ぎなかったが、ひとりで長いこと歩いていると誰かに話しかけたくなるものなのだ。
 着たきり雀の服は薄汚れ、櫛もブラシも持たないから髪の毛はボサボサになっていた。これでは塚本さんとそう変わらないな、とハンスは思った。

 ある日、ユリスは質問を変えてみた。「ブラジルへはどう行けばいいの?」
 美しい通行人が大きな耳飾りを揺らしながら答えた。「あら、ブラジルはここよ、お嬢ちゃん」
 ユリスはぐるっとまわりを見渡した。どこにもこれといった区切りがなく、それが大陸というものの厄介なところだと思った。
「どこからどこまでがブラジルなの?」
「全部が全部ブラジルよ。見えるとこも見えないとこも全部」
「独特なひとを捜しているの。見なかった?」
「独特なひと、ですって? 独特なひとなんか掃いて捨てるほどいるわ、ここはブラジルなんだもの。あたしだってそうとうに独特なはずよ」
 ユリスは久しぶりに動揺した。こんな返答ははじめてだったのだ。独特なひとが掃いて捨てるほどいるなんて考えたこともなかった。ユリスは泣き出した。
「なにも泣くことないじゃない。独特なひとはたくさんいるけど、こないだ破格のひとの噂を聞いたわ。独特なひと、っていうニュアンスとは少し違うけど、破格のひとだって、かなり独特でしょ? そのひとだったらここからずっと上流の小さな町にいるらしいの。あんた、行ってみたら?」
 汚れた服の袖で涙を拭いて、ユリスは訊いた。「破格のひとはひとりだけ?」
「もちろんよ、破格なんだもの。ほら、そこの船着場から船で行けばいいわ」
 ユリスは礼を言って駆け出した。
 美しい通行人は慌てて声をかけた。「あんた、船賃持ってるの?」
「船賃はあたし! あたしが船賃!」ユリスは走りながらそう答えた。

 空になった重箱の包みをぶら下げて扉までは行ったが、蛇の目氏はふと、振り返ってみたくなった。思い切って振り返った。
 覆いの掛かった電灯が寝台の上に金色と萌黄色のだんだらを織り成して、梅ちゃんはそのなかに横たわっていた。瞑目し、安らかであり、痛々しく頼りない老婆であった。
 蛇の目氏は梅ちゃんがこの世に生きているかどうか常々不安であった。梅ちゃんは丈夫で綺麗な歯を持ち旺盛な食欲を見せるのだけれど、この世にちゃんと生きているのだろうか?
「ねえ梅ちゃん」蛇の目氏はあるか無きかの声で呟いてみた。半ば届かないことを、半ば届くことを期待して。
「なあに丙吉さん?」梅ちゃんは鮮明に応えた。
 それは本当に蛇の目氏の名前だった。もう永い間この名前で呼びかけられたことはなかったが、確かに蛇の目氏の名であった。
 動揺の中から、思いがけず言葉が、よろぼい出でた。
「梅ちゃんには、息子さんが、ひとり、いたよねえ」
「いたねえ」梅ちゃんは目を細めて言った。
「いたねえ、ってことは――今は? 今は?」
 それには答えず、
「あの子は毎朝お茶を持ってきてくれた。昼と晩には粗末な食べ物を花で飾って綺麗な器に盛って運んできてくれた。優しい子だった」
「だった? 今、そう言ったよね、だった、って」蛇の目氏は寝台へ駆け寄り、跪いていた。
「近ごろは丙吉さんが昼と晩のお弁当を持ってきてくれるから、あの子は来ない」
「ねえ、梅ちゃん」梅ちゃんの瞠いた眼をじっと見つめ、ゆっくりと言った。「それは少し違うんです。ぼくがお弁当を持ってくるようになったから、梅ちゃんの息子さんが来なくなったわけじゃない。梅ちゃんの息子さんが花で飾った昼と晩を運んでこられなくなったから、ぼくがお弁当を持ってくるんです」
「そりゃそうよ。あの子は死んだんだもの」
 蛇の目氏は上掛けの中を探って梅ちゃんの手を握った。
「判っていたんですね、梅ちゃん。息子さんが死んでしまったこと、梅ちゃんは判っていたんですね」
 老婆は再び瞑目し、誰にともなく囁いた。
「ここにこうして寝ていると、階下のいろんな物音が聞こえる。針が落ちた音も聞こえるし、針が落ちなかった音だって聞こえる。階段の一段目に足を掛ける時に丙吉さんの心臓が急に早く打つ音も聞こえる」
 蛇の目氏は恥ずかしさに俯いた。
「だから、死ぬ時にあの子があげた叫び声も聞こえた。はっきりと」

 尾花は毎晩、桃の里集会所に潜んでいた。

 いつか足跡を残していった侵入者、もとい、未来の利用者が、再び現われるのを待って、真っ暗なロビーで懐中電灯を――点灯せずに――胸に抱き、入り口の脇にしゃがんでいるのだった。二時間ばかりもそうしている日もあれば、四時間に及ぶこともあった。未来の利用者はとても用心深く、臆病ですらあるかもしれず――足跡を残した時も夜のうちにこっそり下見にやってきたのだから――灯りが点いていたり、正面から誰何したりすれば、たちまち逃げ去って、再び集会所に足を運ぼうという気をなくしてしまうかもしれない。もしかしたら桃の里集会所を利用しようとしていることを他人に知られるを恥じているのかもしれない。そう思うと、尾花は少し寂しかったが、心を励ましてしゃがんでいた。

 近頃はナポリタン・カルテットが集会所を使用することも少なくなっていた。
 楽器をトラクターに積んでもらうようになったから、音楽室の機材倉庫にも用がなくなった。新しい曲を練習する時だけは音楽室を使う必要があったが、マレキアーレを仕上げて間もないから当分はその機会もないだろうと思われた。
 四人は、斜面の家の青年に音楽してやるのがとても楽しかった。塚本の娘がいつも一緒にいることを蜻蜒淵だけは少し気にしているようだったが、それでも、聴衆が存在することは目眩く体験であった。そもそも外へ出ようと言い出したのは尾花であったし、ほかの三人同様に、外で音楽することの楽しさに打ち震えていた。
 だから、なおさら、こうして暗がりに身を潜めて未来の利用者を待ち望んでいる時、尾花は自分自身を哀れと感じた。
 重いガラスのドアが内側にグイと開いた。
 尾花は懐中電灯のスイッチに指をかけて身構えた。いや、だめだ、何気ないふうを装わなければ臆病な未来の利用者は肝を潰して逃げてしまう。尾花は暗がりで、ふーんと鼻声を洩らしてみた。居眠りをしていた者が今目覚めつつあるというような、そういうつもりであった。
 入り口で立ち止まっていた人影がびくっと身を震わせる気配がし、いきなり懐中電灯の強烈な光を浴びせられた。
「あんた、尾花さんか? 虎松さんとこの尾花さんか?」
 尾花も懐中電灯を点けて相手の顔を見た。沙汰達人であった。
「沙汰さん、あんただったのか?」
「なんでそんなとこで居眠りしてるんだ?」
「あんたを待っていたんだよ、毎晩」情熱的に尾花は言った。「心配しなくていいんだ、誰にも言いはしないから」壁のスイッチを手探りで押した。
 ロビーに煌々と灯りが点り、懐中電灯で互いの顔を照らし合う二人の男のひどく間抜けな姿が顕になった。
「ここは健全な集会所だし、誰でも利用していいんだ。二階には会議室が二つある。大きいのと少し小さいのと。給湯室も二階だ。湯呑みと急須、ポットも給湯室の戸棚に入ってる。使ったらちょこっと洗って仕舞っておいてくれるとありがたい。それから、それから、一階には機材倉庫つきの音楽室がある。時々おれらも利用してる。あんたはおれらの音楽が好きではないみたいだけど、音楽室は防音してあるから音が外に洩れることはない。安心してくれ。ところで、まあ、答えてくれなくても問題ないんだけど、あんたは何に利用するのかね?」
 沙汰達人はそっけなく言った。「おれも音楽しようと思ってさ」
「へえ! いいねいいね。あんたはどういう音楽をしようと思ってるのかい?」
「まだ、よくは、考えてない。二階の会議室で考えてみようと思ってるよ」
「そうか、じゃあ、そうしてくれ。二階の小さい方の会議室はとても落ち着いて考えられるよ。静かだし、誰も来ないし、お茶も飲める。どんな音楽をするか決めたら一階の音楽室も使って欲しい。楽器を使うんだったら機材倉庫に置いておけるし。おれらは最近あんまり使わないんだ、新しい曲の練習する時以外は。あんたが音楽室使う時は、あんた優先でかまわないよ」
「うん。悪いな。それから、おれはあんたたちの音楽が嫌いなわけじゃないんだ。えーと、あの時はちょっと調子が悪かっただけなんだ」
「そう? そうだったのか。じゃあ、もしかしたら一緒に音楽できるかもしれないな、あんたと、おれらと」
「うん。そう願いたいもんだね」
 二人の男は立ったまま長い時間話し合った。片方は戸惑い気味の熱意のなさで、もう片方は哀れなくらいに有頂天で。

 桃の里集会所から少し離れた道に赤い軽四輪が静かに停まった。運転していた女は集会所のガラスドアの向こうに二人の男が立っているのを見た。
 集会所の上のピンク色のオブジェはライトアップされて夜空に燃えていた。
 赤い軽四輪は再び静かに走り去った。

 〈街角で男がおまえに声をかける。
「お嬢さん、お嬢さん、ゆくあてはあるの?」
「ないけど。あなたはだれ?」
「怪しいもんじゃないよ。このちょっと先に大きな家が見えるだろう。ウメチャーロの家なんだがね、おれはウメチャーロの遠縁にあたるんだ。余所からこの町に来た人には誰にでも親切にしなきゃならないってウメチャーロは言ってる。一緒に来ないか? 服も着替えたいだろ? 体をきれいに洗って、ひと眠りしたいんじゃないのかい?」
「ほんとにそうしたいの。ハンカチ一枚持たずに、ひとりでずっと歩いて来たの。でもあたし、大切な用事がある。破格のひとを捜さなきゃならないの。あなた知らない?」
「おれは知らないけど、ウメチャーロがきっと力になってくれる。ウメチャーロはこの町で一番立派なひとだからね」
「じゃあ、ウメチャーロさんのところへ連れてって」
 なんと、おまえはウメチャーロの家に行こうというのか! 行ってはならぬ! だが、おまえは男について行くだろう。
 緑の蔦と白い化粧漆喰が美しいウメチャーロの屋敷には、大勢の人が暮らしている。家族や遠縁の者が大勢と、信頼できる使用人が数人。
 中庭では女たちが際限なく敷布を干しているだろう。
 女たちは口々に言うだろう。
「おや、アントニオ、可愛い娘だね」
「そんな可愛いお嬢ちゃんをどっから拾って来たの アントニオ?」
「あんたの恋人にするつもり?」
 おまえの手を引いて、何枚もの敷布を掻い潜りながら、アントニオは自慢げに言うだろう。「このひとは遠くから歩いてこの町へ来たんだ。ついさっき来たばかりなんだ。おれはただ親切にしてやりたいだけさ」
 敷布をくぐり抜けた先の明るい庭で、男たちがコーヒーを飲み煙草を服んでいることだろう。
「おい、アントニオ、可愛い娘だな」
「そんな可愛いお嬢ちゃんをどっから拾って来たんだ、アントニオ?」
「可愛いけどずいぶん汚れてるじゃないか」
「風呂へ入れてやりな、アントニオ。見違えるように綺麗になるぞ」
「おーい! マリーア! 湯を沸かしてやんな! おーい! ルイーズ! 何か着替えを持ってきてやんな!」
 皆が皆、陽気で気さくで親切だ。汚れたなりをした余所者のおまえを白い目で見ることもなく、よってたかって世話をし、おまえは清潔な部屋の清潔な寝台でひと眠りすることができるだろう。
 たっぷり眠って気持ち良く目を覚ます頃、アントニオがまたやってきて言うだろう。
「よく眠れたかい? よかったらウメチャーロに会ってやっておくれよ」
 おまえはもちろん、すぐに起きて、アントニオについて行くだろう。
 凝った模様タイルを敷き詰めた部屋には大きな寝台があり、ウメチャーロが寝ている。傍に白衣の老医師が付き添っている。ウメチャーロは起き上がることもできないほどの歳寄りだが、侵しがたい威厳をもった女だ。
「わたしがウメチャーロ。あんたのことはアントニオから聞いている、ユリス。遠くからひとりで歩いて来たんだってね。たいしたもんだ。この家で好きなものを好きなだけ食べ、好きな部屋で好きなだけ眠るがいいよ。いつまでいてもかまわない。ほんのちょっとした事を、この歳寄りの為にしてくれるだけでいい」
「ご親切にありがとう、ウメチャーロさん。あなたの為に何をすればいいの?」
「あんたみたいに元気で綺麗な娘には何でもないことさ。それに、あんただって楽しい思いをするに違いない。そうだね、ジャロメッチ先生?」と、老医師を見た。
「そう。きっとそうですね」老医師は朗らかに言った。
「でもあたし、大切な用事があるの、ウメチャーロさん。破格のひとを捜さなくちゃならないの」
「もちろん力になってやるとも、そうだねジャロメッチ先生?」
「そう。あとでぼくが事情を聞いてあげましょう」
「だが、ユリス、あんたの大切な用事をする前に、わたしの為にちょっとだけ楽しんでおくれ。さあもう部屋へお帰り。わたしは少し休むことにする。ジャロメッチ先生はわたしの主治医だが、ほかのすべての相談にものってくれる。くわしいことはジャロメッチ先生におきき」
 老婆は目を瞑った。
 老医師は唇に人差し指を当てて、静かにおまえを部屋の外へ連れ出すのだ。
 老婆の寝室のすぐ隣に、老医師の書斎がある。
「ぼくは二十四時間体制でウメチャーロさんを看ているのです。あのひとは大変に歳寄ってはいますが、この家の中心であり、この町の半分の中心でもあります。あのひとが死んでしまったらこの家は崩壊し、この町の半分も崩壊してしまうでしょう。長生きをしてもらわないと困るのです。まあ、そこへお掛けなさいユリスさん」
 おまえは落ち着いた部屋の座り心地のいい椅子に腰掛ける。
「さて、ところで、あなたの事情を聞く前にウメチャーロさんのちょっとした要求についてお話しましょう」
 ああ、ユリスよ、我が妻よ、ちょっとした要求を聞いてはならぬ! ちょっとした要求を呑んではならぬ!
 だが、老医師はなめらかに朗らかに話をするだろう。
「もうじき、正確に言うと一週間後に祭りがあるのです。年に一度の、この町独自の祭りです。二つのファミリアが――ひとつはもちろんウメチャーロ一家で、もうひとつは町の東側に住んでいるヅカピーリ一家です――それぞれに趣向を凝らした大きな山車を繰り出して目抜き通りを練り歩き、最終的には町の中心にある祭り専用のスタジアムで華やかさと奇抜さを競うのです。
 その日、町の住人は一人残らず見物にゆき、遠くからも観客が押し寄せて、スタジアムはいっぱいになります。ウメチャーロさんはスタジアムに行くことはお出来になりませんが、一家の者がスタジアムとウメチャーロさんの寝室の間を迅速な連携連絡網で繋いで、まるで実際に見物しているみたいに克明に報告するのです。
 スタジアムの審査員席には余所の大きな町からやってきた名士たちが居並び、厳正な審査をして優劣を決めるのです。優勝したほうには大きなトロフィーと、それにもまして大きな名誉が贈られるのです。名誉はお見せできませんが、トロフィーはあとでご覧に入れましょう。去年は幸いなことにウメチャーロ一家が優勝しましたから、素晴らしく大きな本物のルビーが嵌まったトロフィーはこの家にあるのです。
 ウメチャーロ一家はこの家の裏に山車専用の大きな工房を持っていて、一年がかりで制作しています。もちろんヅカピーリ一家も同様です。
 ただ、ウメチャーロ一家には今年、問題がひとつあって、それはつまり主人公を演じるに相応しい女性がいないのです。そこでちょっとした要求なのですが、ユリスさん、あなたに主人公を演じていただきたいと、ウメチャーロさんはお考えなのです。なに、あなたなら簡単におできになるでしょう。祭りの日まで踊りの練習を受けて――ウメチャーロ一家にはとても優れたダンス教師もいるんですよ――山車の上で自由に踊ってくれればいいのです。自由に、です。煌々しい衣装を着て、楽しんで。ね、たった一日、いや、たった数時間、あなた自身が楽しんでくれればいいのです」
 実に楽しげに老医師が話すので、ああ! おまえはつい返事をしてしまうのだ。
「親切なウメチャーロさんがそうお望みなら、もちろん喜んで」
「では、あとで誰かに工房へ案内させて、制作中の山車をご覧に入れましょう。きっとお気に召すことでしょう。それにダンス教師にも会っていただかないとね。さあ、これで、ちょっとした要求のお話は終わりです。今度はあなたの話を聞きましょう。誰かを捜しているんですって?」と老医師は言った。〉

「ちょっといい感じになってきましたね」とハンスは言った。
「だろ? 辛抱が肝心」と塚本ヤスエ。

 〈ウメチャーロの家に来て三日ほどたった頃、おまえは花の零れる気持ちのいいバルコニーに出て、親切な女に髪を梳いてもらっているだろう。すると、ひとりの男が庭に入って来て歌うのだ、こんなふうに。


   おぼえているかい あの船を
   その名も高き イル・ド・フランス
   おまえは忘れるはずもない
   おまえと俺と 旅した日々を。
   いろんなことがあったじゃないか
   嬉しいことも 悲しいことも
   そして とりわけ 怖いこと。


 おまえは親切な女にこう訊くだろう。「下で歌っている、あれはなに?」
 親切な女はおまえの美しい髪を丁寧に梳きながら答えるだろう。「レペンチスタだよ。流しの歌うたいのことをレペンチスタっていうのさ。あのひとはこのへんじゃとても人気のレペンチスタ。見栄えはあんまりよくないけれど、真心を歌うって評判の」


   おぼえているかい あの夜を
   俺が船から消えた夜
   おまえは忘れるはずもない
   けれど 幾千の波を越え
   俺はおまえのそばにいる
   思いがけなく そばにいる
   町の東のヅカピーリ――


 その名を聞いた途端、親切な女は櫛を放り出して手摺りに駆け寄り、大変な剣幕で怒鳴るだろう。
「ここはウメチャーロの家だよ! ヅカピーリの名前を歌うなんて! とっとと行っておしまい!」
 レペンチスタは慌てることもなくお辞儀をし、立ち去ることだろう。けれども、おまえにはもう判ったはずだ。レペンチスタは俺の使い。レペンチスタの歌は俺の言葉。俺はおまえのそばにいる。町の東のヅカピーリの家に。
 だが、俺とおまえの間には、ほんの一走りの近さでありながら永遠の隔たりが、すぐそこに見えていながら越えがたい障壁があるのだ。
 この小さな町についてレペンチスタが俺に教えてくれたことを話そう。
 町を東と西に分けて牛耳る二つのファミリア、ヅカピーリ一家とウメチャーロ一家は、町ができた時から敵対していた。
 五十年も前のこと、ヅカピーリの身内の老人が夜遅く歩いていると、酔った男が道端に寝そべって大鼾を掻いているのに出くわした。老人は立ち止まって男を窘めようと思ったが、男のあまりの寝汚さに思わず唾を吐きかけた。唾は男の鼻先に命中した。どっちがどうともいえない不作法さだが、男は起き上がり、すぐに拳銃を抜いて老人を射殺した。運悪く男はウメチャーロの身内だったのだ。この事件をきっかけに、もともと敵対していた二つのファミリアは際限なき復讐をくり返し――復讐とはそもそも、際限のないものだが――それは今も続いているのだ。この五十年で死者の数は八十人を超えるという。
 おまえが世話になっているウメチャーロ一家の人々は皆、陽気で親切で屈託がなく、残酷さや執念深さとは無縁に思えるだろう。しかし、彼らの胸には復讐の願いが燃え続けている。彼らは家族や友だちをなによりも大切にし、命をかけて一家の名誉を守ろうとするのだ。彼らの心には羊と蛇が同居しているのだ。
 ヅカピーリ一家も同様だ。
 ところで、俺が助かった経緯についても話しておこう。
 小さな島の海岸に打ち上げられ、死にかけていた俺の顔を覗き込んだ女があった。
「おや、おまえさんはどっかで見た顔だ。もしかしたら、あの気取ったイルなんとかって船に乗ってやしなかったかい?」
 俺は苦しい息の下から答えた。
「おや、そういうあんたは鉛を仕込んだ黄色いテープを投げたひとじゃないかね? 老紳士の帽子を弾き飛ばしてしまったね。凄腕だ、あんた。俺は感心して見ていたよ。だが、俺は知っている、あんたが狙ったのは老紳士の側に立っていた男だったってことをね」
「ふん。鋭い眼力だこと」女は苦々しく笑った。
 俺は本当に死にかけていたのだが、言った。
「あんたもたいした眼をしている。何の関係もない俺の顔を覚えていたんだから」
「おまえさんは破格のひとだからさ。それに、とても可愛い娘を連れていた」
「ああ、それは俺の妻なのだ!」激しい悲嘆は俺の命の火を一吹きで消し去るかも知れなかったが、俺は嘆かずにはいられなかった。「ああ、別れ別れになってしまった妻なのだ。俺はあんたが狙った男に謀られて海に落とされてしまったのだ」
「なんだって! あん畜生がなんだってそんなことを?」
「俺が見抜いていたからさ、あの男が殺人者だってことを」
「おまえさんは、ほんとうに鋭い眼をもっているね」と、今度は本当に感心して女が言った。「確かにあん畜生は殺人者さ。あたしはあいつを追っていた。だけどいったん故郷の町へ帰るところなのさ。なぜなら、もうじき年に一度の祭りがあってね、とても大事な祭りだからどうしても戻らなきゃならないのさ」
「頼むよ、あんた。助けてくれ」俺の命は、もう限界だった。
「じゃあ、楽しいお喋りはこれくらいにして、近くで宿を探すとしよう。三日も養生すれば、あんたのことだ、歩けるようになるだろう。ゆく当てがないのなら一緒にあたしの町へ来るかい、破格のひと?」
 女はヅカピーリ一家が最も信頼し身内同然に遇している刺客だったのだ。女の標的である例の殺人者はもちろん、ウメチャーロの身内だ。際限なき復讐の加害者であり被害者でもある殺人者は、おまえを追ってこの町へ戻ってきている。
 そして、三日後の祭りはただの祭りではない。ウメチャーロの老医師がおまえに説明したのはほんの表向きの話に過ぎないのだ。
 町の住人全員がスタジアムで熱狂している間に、誰も見とがめる者のない町のあちこちで二つのファミリアの復讐劇が行われるのだ。誰かが誰かを射殺し、誰かが誰かの首を絞める。静かに、素早く。殺人と流血の証拠はきれいに拭われて、あとには何も残らない。
 そして、ああ、スタジアムでの華やかな山車の競演もまた、それぞれの主人公の命をかけた闘いなのだ。
 ぞっとする話だが、ユリスよ、ヅカピーリの山車の主人公はこの俺なのだよ。おまえがウメチャーロの依頼を受けたように、俺もヅカピーリの依頼を受けてしまったのだ。
 それだから、今、女刺客と殺人者に名を与えなければならぬ。
 突然なにを言い出すのかと、おまえは眉をひそめるかもしれない。あるいはまた、他人の名前なんかに興味はないとそっぽを向くかもしれない。だがね、ユリス、幼く無知なおまえも、少しは人生について学ぶべき時なのだ。
 俺たちの旅の最終目的地は無論、孤高の王と王妃として暮らす静謐の城である。だが、そこに行き着くまでには見知らぬ他人の介入を受けざるを得ない。見知らぬ誰かが俺たちの行く手を阻み、また見知らぬ誰かが俺たちに救いの手を差し伸べる。
 今は無名の女刺客と殺人者も、優雅で特徴的な――少し長めの名が望ましい――名を与えれば、彼らの殺伐とした心にも潤いと陰影が生じ、俺たちの苦難を救う希望の光となるやもしれぬ。
 名付ける際の注意点をもうひとつ上げておこう。恋人同士に相応しい、美しく響き合う名を考案せよ。なぜなら、俺は知っているからだ、女刺客の胸に恋が芽生えつつあることを。対象は無論、殺人者である。長い年月を執拗につけ狙っているうちに、殺意が恋情にすり変わったとしても不思議はないではないか。当の女刺客はおのが胸の内の変化に未だ気づいてはいないが、いずれ近い将来に、この許されざる恋心に苦しむことだろう。なにしろ恋の芽というものは、突然胸を突き破り、瞬く間に葉を繁らせて、当の本人を困惑させるものなのだから。
 名付けよ、ユリス。蛮勇を振るって、ふたりに美しい名を!
 返事は例の子供に。今回は書面でのみ受け付ける。子供が盗み読む気を起こさぬよう、幾重にも折り畳み、厳重に封印することを忘れるな。〉

 塚本家の前に、赤い軽四輪と並んでトラクターが停まっていた。
 陽はすっかり落ちて、優しい夜風が吹き通る座敷では、電灯の下、いつに変わらぬ夕食の風景があった。
「ヤッちゃんご飯粒あちこち飛ばすのやめなさい」沙汰砂子が窘めた。
「おまえなんかにヤッちゃんと呼ばれる筋合いはない」仏頂面で言い、塚本ヤスエは箸も口も休ませずせっせと食べていた。
「そんなに急いで食べて、ヤッちゃん、胃を悪くしても知らないわよ」
「うるさい。あたしは三十年以上こうやって食べてるが胃なんか悪くない」
「ねえヤッちゃん、アレなんとかしない?」
「アレとはなんだ?」
「アレよ不細工な藁人形のこと。小屋――じゃなくて、納屋の中にある」
「アレはなんともする気はない」
「じゃ、錠前の鍵をちょっと貸してくれない? アレをもっとよく見たいの」
「貸さない」
「ヤッちゃんお父さんにお醤油まわしてくれない? アレね、ヤッちゃんがこしらえたんでしょ? 可笑しいわ」と笑った。
「小屋――じゃなくて、納屋に、なにかあるのかい?」と塚本・父が訊いた。
「あるのよ」沙汰砂子はクスクス笑いをこらえて言った。「お父さんもいっぺん見にいったらいいわ、すごく可笑しいの」笑いが弾けた。
「飯粒飛ばしてんのはおまえだろ?」塚本ヤスエがやり返した。
「あ。ごめんごめん」飛ばした飯粒を拾って口に入れながら、「鍵が掛かってて入れないからぼんやりとしか見えないんだけど、それでも、すごく可笑しいの。ヤッちゃんの人形と変な男の子の人形が、こう、並んで――」
 塚本ヤスエが無言で一切れのタクアンを投げた。沙汰砂子は上手によけて、落ちたタクアンを拾って食べた。
「やめて、食べ物を投げたりするの。ねぇ、お母さん見に行かない?」
 塚本・母も笑って、「じゃあ、あした見に行こうか、ヤッちゃんがこしらえた人形。ねえ、父ちゃん」
「そうだな。じゃあ四人で一緒に行こうか。母ちゃん弁当作りな」と塚本・父。
「あいよ」塚本・母は冷蔵庫の中身を思い浮べ、「散し寿司でもしようかね」と言った。
「あたしは忙しい。遊んでる暇なんかない」塚本ヤスエはチャランと箸を放り出し、その場にぶっ倒れた。食べたいものをすべて食べ、満腹で、充実して、じっさいかなり幸せだったのだ。

 あの日以来、毎夕のように沙汰砂子はやってきた。
 沙汰砂子に小屋の扉を壊された翌日から、塚本ヤスエもどういうつもりか意地を張るのをやめ、夕飯にわざと遅れるのもやめた。
 塚本・母は奇妙な夕飯にすぐに慣れ、塚本・父は妻に倣った。

 近ごろは塚本・母と沙汰砂子と二人で台所に立つようになった。互いの味に歩み寄り、良い具合に協力体制ができあがった。塚本・父が慣れない味に妙な顔をすることもなくなったし、塚本ヤスエは明らかに以前よりたくさん食べていた。

 塚本・母は、夕飯の女がヤッちゃんの姉であるかのような錯覚を起こすことがあった。二人は概ね仲の悪い姉妹のようであったから、あんたらきょうだいなんだから少しは仲良くしたらいいのに、と思わず口にしたことも二度ほどあった。そんな時ヤッちゃんは、フンと膨れっ面をし、夕飯の女は叱られた小学生のようにしばらく俯いてボソボソ食べているのだった。

 夕飯が済むと、夕飯の女は一緒に洗い物をして赤い軽四輪に乗って帰っていくのだ。

 一度、夕飯の最中に沙汰達人が訪ねてきたことがあった。妻がお邪魔していませんか、ウチの車がお宅の前に停まってるんで、もしやと思って……そう言った沙汰達人の視線は、開け放たれた座敷で食卓についている夕飯の女に釘づけになっていた。
 塚本・母は迷った挙げ句、あんたの奥さんは来ていませんが、と言った。なぜなら、ヤッちゃんと並んで夕飯を食べているのは沙汰達人の妻というよりはずっと、ヤッちゃんの姉であるような感じがしたからだ。
 沙汰達人は、そうですか来ていませんか、お邪魔しました夕飯中に、と帰っていった。


 沙汰砂子は赤い軽四輪を運転して夜道を走っていた。家に帰るわけではなかった。このところ車の中で眠ることが多かった。

 昼間はときどき四色畑に行って野菜の世話をした。かつて夫だった者の姿はなく、ヤッちゃんと変な青年が小屋から出ていってからは四人組の楽隊も来なくなった。静かな畑で静かにしゃがんで野菜の世話をして、少し涙を流すこともあった。

 小屋には大きな錠前が掛かっていて、窓からは不細工な藁人形が二体見えた。藁人形を嫌っているわけではなかった。むしろ不細工ゆえの愛敬に心が和む感じがした。ただ、できれば鍵を開けてもらって小屋で眠りたかった。赤い軽四輪の中はいかにも狭く、体が痛むのが辛かった。鍵を貸してほしいと、それとなくもちかけたのも今夜で三度目だった。ヤッちゃんてほんとに強情でこまるわ、と独り呟いた。でも、あたしが車の中で眠ってるなんてヤッちゃんは知らないんだから、しょうがないのよね。

 一度などは、誰も見向きもしないあの桃の里集会所を見に行った。驚いたことに皓々と明かりが灯り、ロビーに男が二人、話をしていた。一人はかつて夫だった者のようであった。それに屋上の得体の知れないオブジェが禍々しいピンク色に浮かび上がって、とてもじゃないけどあんな悪趣味なものの下では眠れないと早々に引き上げたのだった。

 それにしても、こうして闇の中をゆく当てもなく運転していると、まるで別人になったような気がする。胸には狂暴なほどの勇気がたぎり、強くアクセルを踏みたくなる。

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