『ユリス』十一章

 〈ついに祭りの朝がきた。俺たちの悲劇の開幕だ。
 あてがわれた部屋の大きな窓を開け放つと、ブラジルの風がどうっとなだれ込んだ。空は高く高く晴れ渡り、祭りの日に相応しい上天気だ。
 俺が支度を終えたころ、ママウン・ズカピーリがやってきた。
「あんたのためにこしらえたんだよ」誇らしげに言って俺の胸に当てたのは、金糸の縫い取りと黒耀石で隙間なく飾られた胴着なのだ。矯めつ眇めつ「ほら、ぴったりだ。夜なべした甲斐があったというもんだ。まあ、なんてよく似合うんだろ、ねえ父ちゃん」
「うん」パパウン・ズカピーリは部屋の入り口に留まり、足を交差させて、もじもじと立っていた。
 ママウン・ズカピーリは、一言一言が俺の胸の中で重しになることを願っているかのように、慎重に言葉を区切り、言った。「でもね、これはとても重いから、パレードの時はまだ着ないほうがいいよ。そうだね、山車がスタジアムに入ってから、いや、最後にあんたが山車から降りる時に着るのがいいと思うよ」
「せっかく夜なべして作ってくれたんだ、重くても最初から着ていよう」俺は言った。
「だめだめ。あたしの言う通りにおし」
「母ちゃんの言う通りにしたがいいよ、あんた」パパウン・ズカピーリは足を踏み変え、あらぬ方を向いたまま言った。
 束の間の沈黙のあと、ママウン・ズカピーリが言った。
「しっかりやっておくれ。ずっと以前、あたしらの娘はウメチャーロの身内の男に辱められた。娘はそれを恥じて死んだのだ。ウメチャーロ一家に負けてはいけない」
 パパウン・ズカピーリは悲しげに俯いていた。
「さあ、もう行っておくれ。あたしらはスタジアムであんたを見ているよ」
 信じがたいほど巨大で複雑な山車が何台も工房から引き出され、ヅカピーリの家の前は、さながら神秘の密林と化した。一年がかりで製作に携わり、今日はその仕掛けの操り手でもある大勢の職人と、俺と共に踊りの稽古を積んできた五十人の踊り手が既に乗り込み、俺を待っている。
 ウメチャーロ一家も同様に、大アマゾンを模した山車を家の前に引き据えて、おまえが乗り込むのを待っているだろう。〉

「かなりいい感じになってきましたね」と、ハンス。
「だろ? だろ? このへんを書いてるときゲル親爺はノッてたんだ。えーっと、なんでノッてたんだっけかなあ」と首を傾げた。
 とても質問して欲しそうだったので、ハンスは質問した。
「ゲルハルトさんはなんでノッてたんでしょうね? 思い出せませんか?」
「あっ、思い出した思い出した。この頃にさ、沙汰の馬鹿野郎が都会の女を――ほら、あの砂子って女さ――連れて来て、結婚することになったんだ。それだと、あたしは沙汰の馬鹿野郎と結婚する気遣いはなくなるだろ? それでゲル親爺は喜んだのさ。ふふん」
「ねえ塚本さん、ほんとにそうなんでしょうか。ぼくにはとても――」
 塚本ヤスエが拳を振り上げるより一瞬早く、ハンスは飛びのいた。
 ふたりはもう互いの扱いにだいぶ慣れて、まるでじゃれ合う二匹の子犬のように、機敏なのであった。

 虎松はフニクリフニクラを歌っていたが、やっぱり《お前にくちづけを》の方が良かったかしら、とふと思った。なにしろ木漏れ日のちらちら踊る木陰のベンチ――じっさいは木箱を並べてあるだけだけれど――では、少し歳が離れてはいるものの、ふたりの男女がまるでじゃれ合う二匹の子犬のように、小突き合い、笑い転げているのだから。

 けれどもほかの三人は、今日はすっかりフニクリフニクラな気分なのだった。もう少なくとも五回はくり返しており、一回毎に調子が上がって最高のフニクリフニクラを演奏していた。

 とりわけ尾花はすごくフニクリフニクラな気分だった。昨日の夜、桃の里集会所の小さい方の会議室を偵察に行ったのだ。ドアをごく細く開けてそっと覗くと、沙汰達人が生真面目な顔つきで腰かけ、お茶を飲んでいた。未来の、でなく、正真正銘の利用者となった沙汰達人は、沙汰達人の音楽について生真面目に考えている最中に違いなかった。屋上のオブジェもまた、夜空にピンクの光を放ち、沙汰達人の利用を心から歓迎しているように見えたのだった。だから尾花は、何が何でもフニクリフニクラだった。
 虎松はぶるっと首を振って疑問も一緒に振り払い、この上なく元気に歌った。ここは地獄の釜のなか――

 〈街の東と西とでいちどきにラテンのリズムが鳴り響き、パレードは今、始まったのだ。ふたつのパレードは、スタジアムに着くまで決して出会わない。それは、過去の苦い経験と後悔によって編み出されたパレード地図あってこそなのだ。途中で出会ったために乱闘になり、山車は壊れ、大勢の怪我人や死人が出たことも一再ならずあったのだ。
 通りにあふれていた人々も、踊りながら山車を取り囲み、ついてくる。俺の遥か後方には磨きたてた黒塗りの自動車が一台、音もなくついてくる。無論、乗っているのはママウン・ヅカピーリとパパウン・ヅカピーリ。
 密林から突き出た険しい山のいただき、それが俺の場所だ。黒一色の衣裳に身を包み、頭には恐竜の頭骨を冠り、仁王立ちに立って下界を見下ろす俺は、原始の神なのだ。例の胴着は、ママウン・ズカピーリの言いつけどおり、きちんと足元に置いてある。
 おまえは、ユリスよ、あえかな光ゆらめく水底の神殿で、優雅に踊っていることだろう。そよ風ほどに軽く透き通った衣には五彩の宝石がちりばめられ、おまえの動きに合わせて煌めいているに違いない。
 ところで、ちょうどその頃、例のレペンチスタはスタジアムの入り口に立ち、大きく息を吸った。スタジアムには無論、まだ誰もいない。遥か遠く、ラテンのリズムが風に乗って切れ切れに聞こえるほかは、黒犬が一匹、観覧席をうろついているのみ。
 レペンチスタは赤いリボンとたくさんの薔薇で飾られた審査員席を見上げ、それから控え室に下りていった。
 控え室にはひとりの老人が鏡に向かって座っているだけだった。他の審査員はまだ誰も来ていなかったのだ。
 レペンチスタは少しがっかりしたようだが、真心をこめて、歌った。


   どうか 審査員さま
   わたしの願いを聞いてください
   あなたがどなたかは知りませんが、


 老人は振り返り、言った。
「わたしはエッチューリョです」
 顔には薄く白粉と頬紅を塗り、晴れがましい審査員席に座る準備はほぼ完了していた。
「隣町の町長のような者、と申しておきましょう。もちろん本日の審査員でもあります」
 誇らし気に赤いリボンと薔薇で飾られた名札を見せるその人物は、なんと帽子の老紳士ではないか。
「それで、あなたの願いとは?」


   どうか お慈悲を エッチューリョさん
   ふたりの主人公はこの町のひとではありません
   遠くからやってきた旅人ふたり
   復讐の町とはなんの関わりもないふたり
   しかも ああ なんと悲しいことでしょう
   ふたりは夫と妻なのです
   どうか お慈悲を 町長さま


「町長のような者、です」老紳士は毅然として訂正した。


   どうか お慈悲を 町長のようなおかた
   ふたりが倒れるその前に
   どうか 審査を 引き分けに
   ふたりの命を救うため
   どうか 勝負を 引き分けて――


「それはできかねますな」老紳士はぴしゃりとはねつけた。「審査員を引き受けた以上、厳正かつ峻烈なる審査をすべきではありますまいか? たとえ命のかかった勝負でも、否、命をかけた勝負なればこそ、審査員たる者、眼瞠いて優劣を見極めるのが本分と心得ますが、違いますかな? あはーん?」
 失望のあまりレペンチスタの顎がだらりと下がった。老紳士はわずかに優しさを示して言った。
「あんたの優しい心根、この町の惨状を憂うるあんたの清らかな人柄には感じ入りますがな、それとこれとは、また、別の問題。違いますかな? あはーん?」
 レペンチスタは悄然と控え室を出た。観覧席の黒犬が嘲笑うかのごとくひと吠えしたものだから、いよいよ打ちしおれてスタジアムから立ち去ったのだった。哀れな男ではないか、他人の命乞いをして傷つくとは。
 それにしてもこの男、これからどこへ行くつもりなのだろう。パレードを見物する気にはなれないだろうし、かといって酒場で泣きながら酔っぱらうことも出来ない。酒場の連中もまたパレードに参加しているために、店という店は閉まっているのだからな。
 ところで、もうひとり、レペンチスタと同じ願いを胸に秘めた人物がいる。
「ねえウメチャーロさん、考え直していただけませんか。今ならまだ間に合うのです。パレードはまもなくスタジアムに入ることでしょう。でも、その前にあなたの一声があれば、悲劇は起こらずに済むのです。ねえ、どうか、パレードを止めてください」
 ウメチャーロの寝室で、老婆をかき口説いているのはジャロメッチ医師だ。
 老婆は目蓋も上げず、陶器のごとく寝台に埋もれたままだ。
「ねえ、お願いですウメチャーロさん、今年は特別なのです。それはあなたもおわかりでしょう。聡明なあなたは、ぼくなどが口を出す前からわかっておいでのはず。あのふたりは夫と妻なのです。夫と妻が理由もなく互いを傷つけ合うのを、黙って見ていろと?」
 ウメチャーロは瞑目したまま幽かな息で、しかし断固とした意思を以って囁いた。
「ここにこうして寝ていると、いろんな物音が聞こえる。針が落ちた音も聞こえるし、針が落ちなかった音だって聞こえる。だから、殺される時に息子があげた叫び声も聞こえたのだ、はっきりと」
 ジャロメッチ医師は寝台を探り、老婆の手を握りしめた。悲しく厳しい枯れ枝の手は、激情に震えていた。医師もまた、知っていた。二十数年前ウメチャーロの息子がズカピーリの身内に殺されたことを。
 そして今、二つのパレードがスタジアムの入り口で合流した。〉
「ちょっと待て」と塚本ヤスエが言った。「あんた、なんかみょうなこと考えながら読んでるだろ」錆びた菜っ切り包丁で相手の脳ミソを突つきまわすような視線であった。
「いえ、そんなことは」ハンスはたじろぎ、手を泳がせて防衛しようとした、が、突つかれた脳ミソは簡単にぼろを出した。

「ロミオセロムレットーがいいんじゃないかって……」
「そりゃ、あのくっだらない女刺客の名前だろ」
「違います、殺人者のほうです。女刺客はジュリエデスデモーナフィーリアなんかどうでしょう。恋人たちにふさわしい美しく響きあう名前だと思います」
「たいがいそんなこったろうと思った。いいかハン公、あのくっだらない連中の名前なんか考えたって無駄なんだ。いいかハン公、そんなくっだらない名前なんか今すぐ忘れて、真剣に読め。気合いを入れて、声に出して読め」
「いやです」ハンスは弱々しく抵抗してみた。「今はそんな気分じゃありません」
 当然のことながら、塚本ヤスエはハンスの抵抗など完全に無視し、強烈に体をねじって後方に向かって怒鳴った。
「馬鹿蜻蛉淵! 違うのやんな! 胸がぎらぎらするのをやんな!」
 四人のフニクリフニクラはいっぺんにしぼんでしまった。額を集めてこそこそ相談した。
 斜面の家の青年は何一つリクエストらしき発言はしなかったが、塚本ヤスエは時折りこのように、理不尽な中断と理解不能の要求を突きつけるのであった。


   カタリー、カタリーよ
   なぜ、おまえはこんなに酷い言葉をわたしにいうのか?


 トラージョのテノールがむせび泣き、ヤンマーノのマンドリンは地を這い、キョクチョリーノのアコーディオンは重く重く引きずった。オッハナは相変わらず淡々とギターを弾いた。《うすなさけ》という曲だった。

 ハンスは仕方なく立ち上がり、木箱に乗って背筋をしゃんとした。

「おおっと、二つのパレードがスタジアムの入り口で、今、合流しました! 原始の密林のずっと後方でぴかぴかに磨いた黒塗りの自動車から誰か今降りてくるもようです。ははあん、ヅカピーリご夫妻のようです。ふたり堅く手を握り合い観覧席への階段を昇っていきます。
 おおっと、二つのパレードが、そしてそして踊る群衆が、一気にスタジアムに雪崩れ込んできました! 観覧席はあっという間にいっぱいです。やや! あれはなんでしょう? 一匹の黒犬らしきものが、今、観覧席の手摺りを跳び越えて、おおっと原始の密林の下にもぐり込んでしまったようです! 大丈夫でしょうか、黒犬の運命やいかに!
 赤いリボンと薔薇の花で飾られた審査員席には既に九人の審査員の方々がお揃いで、もちろん胸には赤いリボンと薔薇の花で飾られた名札をつけています。ここからでは名札の文字は読めませんが、いずれ劣らぬ立派な紳士ぶり。今や遅しと競技の始まるのをお待ちであります! 
 さあて、原始の密林と、そして大アマゾンの神殿は今、隊列を整え終わり、競技場を回り始めました。ああ! 二つのラテンのリズムは互いに溶け合い、ずっと複雑で歪んだリズムとなってスタジアムにあふれています。なんという熱狂! なんという狂騒! 観覧席は歓声と怒号の坩堝と化しております!
 ああっ、主人公のふたりに動きがありました! 動きがありました! ごらんください、原始の密林にそそり立つ山の頂上を! あれは神か野獣か、いや、神であります! 今力強く足を踏み鳴らし、怒りのダンスが始まりました! 頭に戴いた、ええっとあれはなんでしょう、恐竜の頭蓋骨のようです、その空洞の目の奥から妖しい光が! 黒耀石です、黒耀石が光っています! 
 水底の神殿をごらんください! ガラスの神殿から今、美しい水の女神が泳ぎ出で、ピラニアダンサーの群れと戯れています。衣装に縫い込まれた宝石が光っています、まるで五彩の鱗です。なんという、なんという美しさでしょう! 女神は大アマゾンの流れを自在に泳いでゆきます! 水の中の揺らめく光をまとって踊っています! 今年、ウメチャーロの山車で最も工夫されたのが、この照明設備です。山車の下の方では職人の親方も誇らしげに踊っています!
 おっと、観覧席にも動きがあります。ウメチャーロ側の席から一人の男が飛び出し、スタジアムから出て行きます。紺一色のユニフォーム、腕に白い腕章をはめているところを見ると、どうやらウメチャーロ一家恒例の情報リレー隊の一員です。同じユニフォームの男が決まった場所に立ち、スタジアムの様子をリレーで伝達してゆきます。おお、速いこと、速いこと! この日の為に鍛えた脚、この日の為に鍛えた心臓であります!
 おっと、両陣営の山車から、神と女神が降りてくるもようであります! 山車も音楽もピタリと止まり、スタジアムは今、静寂に包まれ、すべての観衆、すべての踊り手すべての職人、審査員でさえ息を止めてふたりの主人公を見守っております!
 荒々しい原始の神は、あれは黒耀石でありましょうか、黒耀石、黒耀石で飾った重厚なベストを、いや、ベストというよりも鎧をぴったり着こなしております。恐竜の頭蓋骨の眼と鎧の黒耀石が互いに呼応して光を放っております! なんと、なんと禍々しい神でありましょう! 
 競技場の中央には恒例の大きな盛り土があり、そこが本日最後の舞台であります。東側から荒々しい原始の神が、西側からは清冽な女神が、ゆっくりと登っています!
 荒々しい神と清冽な女神が今、盛り土の舞台に上がりました! ラテンのリズムが再びスタジアムを揺るがします! 
 おおっと、強い強い一陣の風がふたりの足元から土をさらっていきましたが、ふたりはびくともしない! びくともせず立っている! ふたりは何か叫び交わしております! 叫び交わしております!
『ユリスよ、我が妻よ!』
『ゲルハルト、ああ、最愛のあなた!』
『ついにおまえは俺を捜し出した。よくやった』
『ええ、あなた。でも、こんなところで逢うなんて』
『そうだな、こんなふうに、敵同士として』
『あたしは負けない』
『よく言った。だが、おまえが俺に勝てるものか。覚悟はいいな?』
『もちろん』 
 な、なんと神と女神は夫と妻ではありませんか! おっと、審査員席から何か聞こえます。あれは誰でしょう? ここからは名札の文字は読めませんが、一人の老紳士が立ち上がり、拍手をしています。
『天晴れ! 夫と妻! ごらんなさい、あのふたりを。たとえ夫と妻であろうとも、真剣に闘おうとしているではありませんか。その真剣な決意に報いるのは、真剣な審査のみではありませんかな、レペンチスタ殿?』
 いったい誰に話しかけているのか、老紳士は満面の笑みを浮かべています! 不気味です! 不気味な審査員であります!」

「な? あたしはうまくやったろ?」塚本ヤスエが言った。「な? うまいことゲル親爺を見つけたろ?」
「うまくっていうよりは、ほとんど偶然でこぎつけただけじゃありませんか」
「ふん! 偶然を味方につけるのだって、才能と力が要るんだよっ!」
 ハンスは木箱から下りてしょんぼり腰かけた。ぼくの人生で、偶然が味方してくれてことなんかない……ぼくは偶然を味方につけたことなんかない……
 虎松はやっぱり《うすなさけ》じゃまずかったのか、と思った。局長をチラと見たが、局長は鼻をすすり上げながらアコーディオンを抱き締めるように弾いており、蜻蜒淵も局長に寄り添って、泣きながらマンドリンを引っ掻いていた。ふたりはめっきり《うすなさけ》なのであった。仕方なく尾花を見上げた。尾花は小さな眼を細めて虎松に微笑みかけた。尾花のギターは優しく清らかで平凡だった。
 虎松は、オッハナがいいのならおれもいいのだ、と安心し、歌った。
 塚本ヤスエは萎れたハンスの肩を抱き、言った。
「がっかりするこたぁないさハン公。あたしを見習って頑張れば、あんたにだっていい日が来る。立てハン公。続きをやんなハン公」
 ハンスは再び木箱に上った。

「おお、原始の神と清冽なる女神、戦闘を、いや、ダンス競技を開始しました! 激しい、激しいダンスであります! いやあ、今年の主人公は二人とも、見事ですねえ。
 ヅカピーリ陣営、荒々しい原始の神を演じますはゲルハルト・パンネンシュティール。ニッポン・モモノサト出身。年齢不詳、体重百五十六パウンド。
 ウメチャーロ陣営、清冽なる大アマゾンの女神を演じますはユリス・パンネンシュティール。同じくニッポン・モモノサト出身。十三歳、八十一パウンド。
 おっと、原始の神、原始の神の足がもつれ、転倒か? 転倒か? いや、持ち直しました、踏み止まりました、さすが原始の神、素晴らしいバランス感覚であります! 
 おおっと、女神の冠が、今ふっ飛びました! あまりの動きの激しさに、煌めく銀の冠は無惨にも土まみれとなって原始の神の足元に転がっています。さあ、どうするでしょう、あっ、女神、駆け寄って冠を蹴り出した、冠を蹴りだした! 原始の神の激しいステップの邪魔になるのを気遣ってのことでしょう。敵に塩を贈る余裕です。冠はリングから、いや、盛り土の舞台から転げ落ちてゆきます。あっ、原始の神も被り物を脱いでおります。踊りながら脱いでおります! あの禍々しい恐竜の頭蓋骨を大きく振って、大きく振って投げました! もはや二人は神でも女神でもない、闘う男と女です、闘うユリスとゲルハルトであります! まさに好敵手の二人であります!
 おおっと接近戦です、接近戦にもつれこみました! ゲルハルトがユリスの腕を引っ掴み、引き寄せました! 体重の差は歴然! 哀れユリス、こうなると圧倒的に不利、不利であります! 審査員は皆、身を乗り出しています、観覧席は総立ちです! 声援と怒号と歓声によって、もはやラテンのリズムすら聞こえなくなりました! この、ぼくの声も、もはや、誰にも、誰にも聞こえないでありましょう! 
 ああっ、ゲルハルトの胸から、今、何かが発射されたように見えました! 鋭く光る、針のように、ぼくには見えましたが……あっ、今、観覧席の片隅で見物の一人が倒れました! 誰一人気づいていませんが、ああ、彼は一瞬にして絶命したもようです。凶器を仕込んだ黒耀石の鎧……なんと、卑劣な! しかしユリスはその一瞬に身を仰け反らせていたために難を免れました。なんという幸運。偶然は、ユリスの味方です。言わせてもらえば、ぼくは偶然に味方してもらってことは一度もありません。
 あっ、今、黒犬が飛び出しました。最前、パレードの際に山車の下にもぐりこんだ黒犬が飛び出し、どういうつもりか、盛り土に向かって走っています! 嬉しそうに走っています! あっ、再び針が! あっ、黒犬がキャインと一声鳴いて飛び上がった! 鎧から発射された針が、ああ、可哀相な黒犬の尻に刺さって……ああ、どうっとその場に倒れたではありませんか! 
 ゲルハルトは闘いを、いや、踊りを止め、茫然と黒犬を見つめています。黒耀石のベストに仕組まれた卑劣なる凶器の事を、彼は知らなかったのか? どうやら知らなかったもようです。観覧席のヅカピーリ陣営にママウン・ヅカピーリとパパウン・ヅカピーリの姿を見つけ、鋭く一瞥するや、おお、自分の両手を胸に強く強く押し当てました! 二本の針は既に発射されております。一本は見物人を殺害し、二本目は哀れな黒犬の尻に。そして、残りのすべての針を自分の掌で受け止めようというのでしょうか。
 おお、ユリス、そっとゲルハルトに寄り添いました。
 意外な成り行きに戸惑ったのか、観覧席の見物たちは棒立ちのまま静まりかえっています。ために、すべての音が再び聞こえはじめ、ラテンのリズムは陽気に空しく鳴り渡っております。さあて、どうなるんでしょう?
 ゲルハルトは、三本目の針が自分の掌を貫くのを待って、ユリスの傍に跪きました。ユリスは愛しい夫の顔を胸に抱き寄せ……ああっ、どうしたことでしょう! ゲルハルト、倒れました! どう、と仰のけに倒れました。針が発射されたのでしょうか? いや、違う、違います、血は流れていない! 針ではないようです! ゲルハルトの顔がみるみる紫色に腫れ上がっています! なぜ? なぜこんなことに? ユリス、茫然と立ち尽くしています。
 あっ、ひとりの老人が今、競技場に走りこんで来ました。白衣を翻し、黒い診察鞄をぶんまわしながら物凄い勢いで走っています。あれは、ジャロメッチ医師ではないでしょうか。傷ついた黒犬のそばでちょっと立ち止まりましたが、思い直してそのまま盛り土をめざしています。こけつ転びつ、盛り土を登っております、ついに到着! 白衣のポケットから茶色の小瓶を取り出すや、紫色からすでに土気色に変わったゲルハルトの唇に押しつけた!
『これを飲んで!』
 おおおっ! ゲルハルトの顔色がみるみる血の気を取り戻しています。効果てきめん、茶色の小瓶! あれはいったい何――
 今、新しい情報が入りました。しかるべき筋によりますと、あの茶色の小瓶の中身は毒消しだということです。ユリスの衣裳の胸に縫い止められている宝石の一つに猛毒が仕込まれていて、それがゲルハルトの顔面に噴射されたらしいと、はい、この情報提供者は勇気ある内部告発者であるために、姓名を明かすことはできないとのことです。
 しかし、ああ、なんと卑劣な! ウメチャーロ一家が仕組んだ猛毒は、ヅカピーリ一家の針と、卑劣さにおいて同等であります!
 しかし、盛り土の舞台では実に感動的な場面が展開中です。互いの無事な体をかき抱く夫と妻! 涙、涙の蘇生劇! ふたりを見守る幾万の群集は静まりかえり、ラテンのリズムから急遽バラードに変更された音楽もぴったりです。ここの音響担当者は実に機転のきく人物のようです。
 そして今、審査員席で、ひとりの老紳士が立ち上がり、
『わたしは一審査員、エッチューリョであります! 隣町の町長のような者でもあります! あんたがたのやり口はなっとらんですな、まったく!』
 お聞きください。マイクを持った審査員氏が、ウメチャーロとヅカピーリの両陣営に対し、怒りの演説を開始しました!
『なんとだらしない! これじゃ審査の仕様もありませんな! 仕掛けをするならするで結構でやすが、当人たちにそれを教え、狙いを外さぬ訓練を施しておくべきではなかったですかな! その上、無関係な人間の乱入を許し――たとえそれが医師であってもです! ――迅速な対処もしないとは、いい加減極まりない!』
 両陣営から激しい野次が飛び、群集もまた声を取り戻し、叫びはじめています。めちゃくちゃな叫びであります! ために、演説の声は途切れ途切れにしか聞こえなくなってしまいましたが、しかし、それでも、審査員氏の怒りの鉾先が両家の卑劣さに向かって放たれたものでないことは明らかです。氏は不正確さに腹を立て、不徹底ぶりを糾弾しています。が、今、マイクをかなぐり捨てました! ついでに薔薇の花ごと名札をむしり捨て、下を目指して移動をはじめました! 行く手を阻む群集を、蹴飛ばし蹴飛ばし薙ぎ倒し、なんと敏捷なご老体、早くも盛り土の舞台に駆け上がっていきます!
 盛り土の舞台では、堅く抱き合うユリスとゲルハルト、そしていつの間にか黒犬の治療を終えていたジャロメッチ医師、その医師の愛情深い手によって尻に包帯を巻かれた黒犬が、固唾をのんで審査員氏の出方を待っているもようです。
 あ、今、一同ひとまとめに盛り土を駆け下りました! 四人と一匹、もつれ合い助け合って走っています! スタジアムの出口に向かっているようです。あっ、あっ、あっと言う間に、なんと思いがけない展開でしょう、怒号渦巻くスタジアムから逃走してしまいました――
 取り残された群集は、ただ呆然としています。そして、このぼくもまた、呆然としています。もはや、もはや、お伝えすることは何もありません」

「そんなら座んな」塚本ヤスエが命じた。「座ってふつうに読みな」

 〈ところで、俺とおまえの命を賭けた激しい舞踏がスタジアムにひしめく観客どもを熱狂させている頃、レペンチスタはどこにいたのだろう。
 風に乗って切れ切れにラテンのリズムが聞こえる。だが、もっと近くでは押し殺した悲鳴、断末魔の呻き、そして忍び笑い――なぜならそこは復讐の街角だからだ。
 レペンチスタは、老審査員の厳しい言葉に打ひしがれて、命の危険も忘れて彷徨ううちに疲れ果て、ひしゃげたゴミ缶の陰にしゃがみこんだ。
 と、間近かでヒタヒタと足音がする。見れば、何やら思いつめた顔つきの女。こんな物騒な日の物騒な街角を歩くとは、とレペンチスタは息をひそめた。
 土埃で判然とは見えないが、女の前方にはひとりの男が歩いていた。
 男はいきなり振り返った。「おい、女!」
 土埃の向うで白絹のマフラーがはためき、不敵な笑いに唇を歪めたその隙間からはギラリと尖った犬歯が光る。その手には犬歯よりずっと物騒な物、拳銃が、女の心臓を狙っている。
「しつこくおれを付け狙うのも今日で最後だ、女刺客スナッチー」〉
「スナッチーですって?」
「だから言ったろ、名前なんか考えても無駄だって」
 〈女刺客スナッチーは押し殺した声で答えた。
「そう願いたいね、殺人者タタッツ」〉

「ああ、タタッツだなんて!」
「いちいちがっかりするな」
「だけど、あんまりじゃありませんか。ぼく、せっかくいい名前を考えてたのに」
 しかし、あんまりなのは名前だけではなかった。

 〈スナッチーは無言で、じりじりと間合いを詰めてゆく。もとより武器は持っていない。胸の内に燃えるのは殺意ではなく、恋なのだ。もしあの拳銃が火を噴けば、あたしもあたしの恋も終わるだろう。が、それも良し、愛しいタタッツの手にかかって死ぬのなら、嬉しい定め。けれどもし、もしも生きて言葉を交わし、血の通う手であの男の頬に触れることが出来たなら、臑に傷持つ男と女、誰も知らない遠い土地でふたり仲良くひっそりと――
 一方、タタッツは拳銃を構えたままクズクズと喋り続けだ。
「おめえはヅカピーリ子飼いの刺客だな。おれはたしかにウメチャーロの身内だし、おまえに狙われるようなこともいくつかしたかもしれねえよ。おれはユリスとかいう小生意気な娘を追いかけて、間抜けなことに生まれ故郷のこの街に舞い戻ってしまったし、おれが海に放り込んで殺したはずのゲルハルトを助けたのはおめえだという噂だし、このまんまじゃおれはてんで笑い者だ。畜生め! か、返り討ちを、か、覚悟しな!」
 その時、一陣の風が土埃を吹き払い、タタッツのすべてが鮮明になった。
 スナッチーは呆気に取られて立ち止まった。これがタタッツか? あたしの恋するタタッツなのか? 拳銃を構える手はふるえ、きょろきょろと落ち着きのない眼をしたこの男が? 
 何年もの間追い続けた男の顔を、これほど間近に見たのははじめてだった。これはあたしのタタッツなんかじゃない。いや、この男がタタッツならば、あたしが恋したのはタタッツじゃない。
 恋も命も危機に瀕した。〉

「ひどいなあ。はじまりもしないうちに終わる恋だなんて」
「はじまってもロクなことにはならない」

〈「丸腰の女だからって勘弁してやるほど、お、おれはお人好しじゃないんだぜ」
 タタッツがなんとかして引き金を引こうとしたその刹那、ぬるりとした叫びをあげた者があった。
「よしねえよぉ」
 横町から飛び出してきたのは、派手な着物をぞろりと引っ掛けた、だらしなさでは誰にも負けない男――〉

「誰です、このひと?」
「いちいち気にするな!」

〈――足があるやらないのやら、どろりだらりとタタッツにしなだれかかり、牡丹の花を染め抜いた振り袖が、ずるりと拳銃に覆いかぶさった。もともとさほどの根拠もなかった殺意はとろりたらりと溶けて消えた。
 スナッチーはいよいよ幻滅したけれど、命拾いもしたのだった。
 振り袖男は満足そうにうなずいて、「これでいいや、これでいい。そこの姐さんも、こっちの兄ィもふたりとも、真直ぐお天道様を拝める体じゃないらしいが、どうだい、二つの命、おれに預けちゃくれめえか」と、聞いたふうなことを抜かす。
「どうせ拾った命だもの」とスナッチーが言えば、
「くれてやっても惜しくはないが」とタタッツが続け、
「なんに使うつもりなのさ」とスナッチー。
 殺意も恋も捨ててしまえば、妙に間の合う二人であった。
「おれはマルッチョっていうんだがね、これからちょいと悪事を働こうというのがおれの望みさ。だけどひとりじゃ心細い。三人ならば心丈夫だ。どうだい、おれと組まねえか」
 スナッチーとタタッツは顔を見合わせ、首を傾げてみたけれど、断る理由は思いつかなかった。
「よし。決まった。おれたちは今日から『小悪党組』ってんだ。せいぜい悪事を極めようじゃあねぇか。おっと、ちょうどいいものがある」と、マルッチョは袂から大きな饅頭を取り出し、手で千切って三当分すると、「これを食いねぇ、義兄弟の盃代わりにさ」
 三人は無言でモソモソとそれを食ったのだ。〉
 マルッチョというふざけた名前に感想を述べるのも省略するほど、ハンスはがっかりしていた。これは、ゲルハルトさん流の嫌がらせなんだろうか。
 〈以上がゴミ缶の陰でレペンチスタが見聞したものだ。
 スナッチー、タタッツ、マルッチョというくだらない名前を持つくだらない三人は、いずれ俺たちの旅に災いをもたらすであろう。〉

 沙汰達人はひとり番茶を啜っていた。

 桃の里集会所の小さいほうの会議室は、尾花の薦めたとおり、静かで、落ち着いて考え事ができ、給湯室にはお茶っ葉以外のすべての備品が揃っていたから、沙汰達人はお茶っ葉だけを持ってここで過ごすようになっていた。畑にはほとんど出なくなっていた。特に、四色畑には全く行かなくなった。塚本ヤスエと斜面の家の若者が小屋を引き払ったことは知らなかった。三箇所所有している畑で丹精した作物が枯れ萎れているであろうと予想されたが、仕方がなかった。沙汰達人は妻を捜していた。この集会所にはじめて足を踏み入れたあの晩、尾花には適当な事を言ってしまったが、本当は妻を捜しに来たのだった。妻は家に帰らなくなっていた。畑に出ても、赤い軽四輪が通るたびにじっと見てしまうので、落ち着かず、農作業もはかどらなかった。この集落の娘たちは、妻・砂子に憧れるようになって以来、こぞって同じ型の赤い軽四輪を買い、始終誰かが乗り回しているものだから、どれが妻の赤い軽四輪だか分からなかった。そもそも、赤い軽四輪は妻のものでなく、自分のものだったのに。

 妻の所在は一部分、はっきりしていた。夕方ちかくなると塚本の家に現われ、夕飯を供にしているらしかったが、なぜそんなことをするのか皆目判らなかった。一度、赤い軽四輪を見かけたので立ち寄ってみたのだが、塚本の母親は、あんたの奥さんならいませんが、と言ったのだ。なぜそんなことを言うのか皆目判らなかった。妻は、じっさい、そこに居て、妙に楽しげに夕飯を食べていたのに。

 結局のところ、沙汰達人は、愚かしい程に、妻のことが好きだった。
 けれども、塚本家に出現する妻が、本当にその妻なのかどうか、よく判らなかった。
 沙汰達人は番茶を啜り、頭を抱え、あーあーと遣る瀬ない呻き声を洩らし、また番茶を啜った。このところ、毎日そうしていた。毎日そうして頭を抱えていても、何の解決策も見い出せず、展望も見えなかった。大きな急須一杯分の番茶を啜り終えると、力なく立ち上がって、給湯室ですべてを丁寧に洗い、布巾できれいに拭いて戸棚に仕舞い、力なく階段を降り、入り口の壁のスイッチを押してすべての明かりを消し、暗い夜道をとぼとぼと、背中を丸めて帰ってゆく毎日なのであった。
 この日も、番茶の最後の一杯を啜り終え、そろそろ帰り時だと思い、最後のあーあーという呻き声を洩らした。
 その時、勢いよくドアが開いた。
 捜し求めていた妻・砂子であった。妻・砂子は言った。
「あれ? あんたひとりなの? まるっちょはどこ?」

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