『ユリス』十三章

 流れる汗を拭おうともせず、塚本・父は走っていた。
 夏バテだったことなど忘れ去っていた。が、心は重く、足はもつれがちであった。
 なにをやっているのだ、おれは? 半日走り回って何の成果もあげていないのではないか、きのうもきょうも。
 思わず、母ちゃん! と助けを呼びたくなったが、妻は自分よりもずっと多くを担当して健気に奮闘しているであろうことに思い到り、強く拳を握って我慢した。今ここで弱音を吐くわけにはゆかないのだ。

 塚本家において、一人娘の誕生会は最も重要な行事であった。それを忘れるところだったとは度し難い。塚本・父は時折り冷汗をかき、その都度、拳で己が頭をどやしつけながら走っていた。今年は、何やら家族が増えたような事情があったとはいえ、うっかり忘れるところだったとは、まったく度しがたい。

 一人娘は、自分の誕生会に只ならぬ関心を持っていた。親子三人きりの慎ましい祝いの席であるにもかかわらず、なごやかさとは無縁であった。娘は、金のかかっただけのものや儀礼的な祝い方に対してはあからさまな嫌悪を表明する傾向にあり、逆に質素ながら意表を衝いた工夫には思いがけず高い評価を与えた。

 しかし、なんにせよ、今回は準備のための時間があまりない、否、なさすぎる。例年ならもうとっくに仕上げの段階に入っている時期であった。

 一昨日の深夜、慌ただしく妻と話し合った結果、今年は客を招待することにした。人数は十人くらいと決めた。賑々しい印象に到達するにはそのくらいの人数が必要だと思われた。不安は、無論あった。長年にわたって親子三人だけで祝ってきた誕生会に他人が参加した場合、果たして娘はいかなる反応を示すであろうか? まるで予測がつかなかった。しかし、残された時間はわずか。他にこれといった妙案も思いつかなかった。

 だが、こうして二日に亘って集落じゅうを駆け回っているのに、誘いに応じてくれる者は皆無であった。そもそも口下手な上に焦りと疲労のせいでその言説はまるで要領を得なかったから、相手は祝い事に招待されているいうことすら理解できず、何やら怪し気なものに勧誘されているのではないか、あるいはまた、何か理不尽な苦情を言われているのかと誤解して、戸惑いながら首を横に振るのであった。


「ヤッちゃんは、ああ見えて、派手な事が好きだからねぇ」
 誰にともなく、塚本・母が言った。沙汰砂子の運転する赤い軽四輪の後部座席で、落ち着きなく腰を浮かせているのであった。
「大丈夫よお母さん、まだ三日もあるんだもの。わたしたちも手伝うし、ね?」と沙汰砂子は助手席の沙汰達人に同意を求めた。
 沙汰達人は曖昧にうなずいた。奇妙といえば奇妙であった。おれが塚本んちの祝い事を手伝うっていうのはどういうもんか? まあいいか、今現在も既に手伝っているわけだし。それにしても、狂乱のドライブの相手が、今はまるでかつての妻・砂子みたいではないか? 物言いも柔らかで、運転なんかはまるきり妻・砂子風だ。まあいいか、今現在運転席に座っているのが妻・砂子であるとしても、それはそれで心ときめくことなのだし。つまり、何も問題なく、素敵だった。

 この二日間、三人は赤い軽四輪に乗って買い出しに回っていた。町へ出て賑やかな商店街を歩いたりもした。沙汰達人は二人の後ろをついて歩き、もっぱら荷物持ちを担当していた。
「買い物もあらかた終わったし。三十人前くらいの料理が作れるくらい買ったわ。それに金モールも銀モールも買ったでしょ? 万国旗も。ゆうべお花もたくさん拵えたしね」ふいに華やかな笑い声をあげた。思い出し笑いなのであった。「お父さんたらほんとに不器用ね。チリ紙やら色紙やらたくさん無駄にしちゃって。でも、ねえ、お母さん、しまいにはお父さんがいちばんじょうずにお花作れるようになったわね。お父さんて頑張り屋さんね」沙汰砂子は明らかに事態を楽しんでいた。「そうたくさんお金を使ったわけじゃないにしても、ちょっとした学園祭並みの支度ができるわ。こんな誕生会って滅多にないと思うわ。ねえ、あなた?」
「うん。ないと思うね」沙汰達人は華やいだ問いかけに相応しい明るさで、なおかつ明晰さを少し加味して答えた。
「あんたたちにわかってもらおうっていうのは無理なのかもしれないけど」塚本・母はなおも落ち着きのない声でつぶやいた。「ヤッちゃんの誕生会は、なんていうか、ほんとに難しいんだよ」
「そう心配することないわ、お母さん。お父さんだっておとといからほうぼうへまわってるんだし、きっとうまくいくわ」
「ああ、とうちゃん!」塚本・母は絶望的な呻きを発した。夫が口下手であることは誰よりもよく知っていた。夫は幾人の招待客を集めることができるだろうか。夫に主題を背負わせたのは果たして正解であったろうか。「ああ、とうちゃん……あたしがかわってやれたらどんなにいいか」
「でも、ほら、お父さん頑張り屋さんだから。ゆうべのお花のときみたいにじょうずにやってると思うわ、ねえ、あなた?」
 それには答えず、沙汰達人が言った。
「ちょっと停めてくれ」
「はい。あなた」という抱きしめたくなるような愛らしい返事とともに赤い軽四輪は可憐に停車し、沙汰達人は首筋に柔らかな恋の視線を感じながら降りて歩き出した。首筋に恋、だぜ。四歩目に幸福感で身震いしたが、爽やかな歩きっぷりに影響はなかった。
 道から少し外れたところにトラクターが停まり、その向こうに四人の男の姿が見えた。
 沙汰達人の後ろ姿を見送り、沙汰砂子が言った。
「あれ、虎松さんじゃないかしら。それから蜻蜒淵君と……あれ? ヤッちゃんとおかしな男の子もいるわ。あんなとこで何してんのかしらねえお母さん」
 と、後部座席を振り返り、塚本・母が奇妙に姿勢を低くしているのを見て、自分も倣った。なかば面白がって、シートからずり落ちそうなくらいの体勢になった。そうして、訊いた。
「なんでそんなかっこうしてるのお母さん?」
「なんとなくさぁ」塚本・母は胸元に顎を埋めていたために不明瞭に答えた。
「そうねそうね」沙汰砂子はくつくつ笑った。「お誕生会の準備をしてること、ヤッちゃんには気づかれないようにしなきゃね。あの子きっとびっくりするわ」

 塚本・母は無論、もっと真剣だった。低い姿勢を保ちつつ頭を抱え込み、これでいいのか、本当にこれで? と呟いていた。

 大きな木の下に寄り添っている男女の背中が妙に寂し気に思えて、沙汰達人はと胸を突かれた。あれが恋する背中なら、なんと悲しい恋だろう。なんと儚げで不幸な恋の背中であることか。較べて、おれの恋はなんと堅牢で、光にあふれていることだろう。否、確かにすこし奇妙な恋ではある。だが堅牢さと充実具合は我ながら驚くほどだ。多少の奇妙さなど問題ではない。それに傍目には、おれたちはもとから夫婦であったのだから、中年にさしかかった沙汰夫妻が世間でいうところの倦怠期をものともせずに太く丈夫な絆を編み上げつつある姿に見えるはず。問題はないではないか。沙汰達人はふと振り返った。可愛らしく停車した赤い軽四輪の窓に恋人の姿は見えなかったが、恋の確信は少しも揺るがなかった。ぜんぜん問題なし。いけすかないほど幸福な気分になって、沙汰達人は唇の端に笑みを浮かべた。あいつらがおれたち夫婦の心に引っ掻き傷をつけたのが、もう百年かそこら昔のことのように思える。

 頼りないマレキアーレをやっている四人に歩み寄り、尾花の背後に危険な影のごとく張り付いた。演奏のわずかな切れ目を狙って、素早く囁いた。
「おい、出番だぜ」


 塚本・父は蛇の目歯科医院の前を通り過ぎ、裏手にある玄関にまわろうとして、ふと足を止めた。疲労のせいで黒ずんだ顔に、さらなる苦悩の色が追加されたが、踵を返して歩きはじめた。残すところ、打つべき有効な手はこれしかないのだ。塚本・父は決然と蛇の目歯科医院のドアを開けた。案の定、その小さな待合室は混んでいた。

 この集落の老人たちは皆、蛇の目歯科の待合室を居心地の良い茶飲み場と心得ていて、いつも六、七人が茶菓子等を持参でたむろする習慣であった。この時は七人が不格好な自家製の餅菓子やらパンの耳のあられを好き放題にひろげて怪気焔の真っ最中であった。

 この七人をひとまとめに説得できれば目的の半ば以上を達成することになる。招待客が老人ばかりになるだろうが、この際選り好みしている場合ではない。塚本・父は拳を握りしめて気合いを入れ、身構えた。老人たちも一斉に身構えた。束の間の堅い沈黙を破ったのは、残念なことに、塚本・父ではなかった。
「なんじゃの、塚さん。恐い顔してぇ」
 老人の一人がビニール張りのソファに立ち上がり、言葉はやわらかいが威嚇にちかい金切り声を発したのだった。残りの老人たちもまた、身構えたままそろそろとソファに這い上り、立ち上がった。極端な高低差が、塚本・父の立場を著しく劣悪なものにした。敗北の予感が胸を支配したが、塚本・父は頑張り屋であったから、低く押し殺した声で説得を開始した。二日間の数十回に及ぶ失敗の経験から、新しい切り口で話しはじめることを思いついた。うちの一人娘は塚本ヤスエというんだがね、と、そう言ってみた。そして、絶句した。本当に一人娘と言い切っていいのだろうか? じゃあ、もうひとりの娘は、うちの娘ではないのか? それではあれが不憫ではないか? しかし、うちの娘であるとして、あれの名はなんというのだろうか? 妻はとりあえずサッちゃんなどと呼んでいるようだが、そんないいかげんな名前ではないはずだ。だとすれば、本当はなんという名前なんだろう。塚本・父はひどく狼狽したが、頑張り屋であり正直な人間でもあったから、もうひとりの娘があるのだが惨いことに名前すら思い出せないのだと頭上の老人たちに告白しようとした。その刹那、またしても邪魔が入った。それは七人の誰でもなかった。茶菓子を盛り上げたテーブルの向こう側で白く輝く大きなものが膨張した。困惑の涙で霞んだ塚本・父の目にはそう見えたが、右手にメモ用紙を持ち左手に蜜柑色の鉛筆を握ったそれは、パリパリの白衣を着た蛇の目氏であった。この日、老人たちから料理の秘伝やら奥義やらを聞き出してレシピ作りに励んでいたのだ。無論、日々の弁当製作に役立てようとしてのことなのだった。
「おや塚本さん、めずらしい。どんどん診療室へおはいんなさい。ここは混んでるけど中は空っぽだからね」と笑いかけた。
「歯にかかずらわってるひまはない」塚本・父はぶっきらぼうに言った。
 ソファの上の老人たちがどよめいた。「老先生にむかってなんちゅう」「茶菓子も持たずにまあ」「いい年して礼儀を」「なにしに来たか」「とっとと」「無礼であろう」嗄れ声や金切り声が一斉に攻撃を開始した。が、蛇の目氏が鉛筆を持った手をあげて一振りするとぴたりと治まった。
「歯の治療でないとすると、なんのご用?」蛇の目氏は優しく訊いた。
 思いがけない優しさに、気合いの拳は融けて流れ、塚本・父はその場にへたりこんだ。
「歯の治療でないとすると、なんのご用? 塚本さん?」蛇の目氏は再度、辛抱強く質問した。
 塚本・父は情けなくも、数十回の失敗の主な要因であった支離滅裂な口舌を申し述べた。今となっては新たな切り口も工夫も思いつくことができなかったのだ。蛇の目氏は注意深く聞き取り、かすかに目を輝かせ、言った。「もういっぺん、はじめから言ってください」
 塚本・父は哀れなほど従順にくり返した。
 都合四回も同じことを喋らせた後、蛇の目氏はやおらソファの上の老人たちに向かい、要約説明を試みた。七人の老人は一声づつ何か叫ぶと、上がり口にうずくまる塚本・父を乗り越え飛び越えて嵐の勢いで駆け出して行った。
「で、場所は?」と、蛇の目氏が訊いた。
「うちで」と、小さな声で塚本・父が答えた。
「そりゃだめですよあんたとこは狭いから」すかさず蛇の目氏。「ぼく、ちょっと心当たりがあるから、そこでやりましょういいでしょ? いいですね?」
 塚本・父は否応なく頷いた。頷いた時にはすでに蛇の目氏の姿も消えていた。
 治療室の扉が開いて長男の嫁が顔を覗かせ、ひとりぽつんと立っていた塚本・父に声をかけた。
「おやめずらしい。じゃ、塚本さん、どうぞ」
 草臥れきった体を治療用の椅子に投げ出し、若先生が乱杙歯の歯石を削り取るにまかせて、塚本・父は少しのあいだ幸福感を噛み締めることを自分に許した。事態は激変したといってよかった。
 塚本・父が朧げに理解したところでは、七人の老人全員が誕生会に出席してくれるらしく、なおかつ家族や友人を誘うために帰っていったらしかった。隠居先生の簡潔明瞭な言葉は、なんと絶大な効果を生んだことだろう! おれも、出来ることならば、あのような説得力ある言葉を修得したいものだ。その上、会場のことまで心配してくれて、手配するために飛び出していった。なんという行動力だろう! 七人の老人全員が家族や友人を伴って出席してくれたら、十数人、いや二十人を超えるかもしれない。二十人をもてなすには、確かに我が家は手狭であろう。しかし、ああ、もう心配はいらないのだ、隠居先生がまかせてくれと言ったのだから。だが、こうしてはいられない。今も、老いた妻と、名前すら不明なもうひとりの娘は、口下手なおれの難儀を想像して、心を痛めながら作業を進めているにちがいない。だが、ああ、主題はほとんど達成されたのだ。一刻も早く報告して安心させてやりたい。それに、やるべきことはまだ山のようにある! 
 飛び起きようとしたのを若先生が柔らかく、だが力強く押し戻した。
「もうすぐ終わるからじっとして。それに、親父に何か頼んだんなら、まかせておけば大丈夫。なあ?」と妻を振り返った。
「そうよ塚本さん。大丈夫よ。うちのお義父さん、ちかごろスーパーマンだもの」と、妻が笑った。

 長い長い、手紙にしておよそ四十通分の長い夜がようやく明けようとしていた。
 根負けしたのは、結局ゲルハルトだったのだ。

 〈究極の選択をするチャンスを逸したおまえに、俺は極めて残酷な生への帰還を与えねばならぬ。
 夜明けの最初の一閃に指先を暖められ、おまえは夜の闇から生還する。まずは意識が、次いで心臓が。どれほど死に近づいていようとも、まだ生きているおまえの若い血液は熱く、全身を駆け巡る。寒さに強ばった体を縮め、うずくまる。その干涸びた喉から痛恨の呟きが洩れる、「ああ、まだ生きている」と。そして、その後は言葉にならない悲痛な呻きが長く尾を引く。
 レペンチスタもまた、生きている。俯せのまま眼も開かず、嗄れた声で、歌にもならない歌を歌う。
 ひび割れた地面に散らばったガラクタどもにも充分な光が振る舞われるころになって、おまえたちはようやく異変に気づく。俺がいない。そう、俺はいないのだ。
 遥か遠くで叫ぶ声が聞こえはしないか、こう言っている声が?
「水だ! 川があるぞ!」
 それは、俺の声によく似ている。
 おまえたちは顔を見合わせ、真剣そのものの表情で耳を澄ます。やはり聞こえる。「水だ! 川があるぞ!」とくり返すのは俺の声に違いない。耳が主人を裏切ってでもいないかぎり、俺の声に間違いない。
 おまえは死力を振り絞って立ち上がり、一心不乱に走る。走るというにはあまりに遅く、よろめいてばかりいるにしても、着実に俺の声に近づいて来る。レペンチスタはガラクタを掻き集め、少し遅れて走ってくる。
 俺は昨夜のうちに、川を発見した。俺の嗅覚は鋭い。夜の空気の中に水の臭いを嗅ぎ取ったのだ。乾期のさなかというのに、見よ、川は澄み切った水を湛え、たっぷりと豊かに流れているではないか。
 その上、向こう岸にはいくつかの家も見える。二つ三つの差し掛け小屋と、少しましな二軒の家で構成された小さな集落だ。眼を凝らせば、細く頼りない煙が一筋立ち上っているのがわかる。一軒の家の陰には青いトラックの尻が覗いている。なんと鮮やかな青だろう!
 けれども、しかし、見たところどこにも橋はない。一艚のボートが向こう岸に繋がれているが、こっちの岸には何もない。歩いて渡るには川は広く深く、俺たちは体力を消耗し過ぎている。俺たちの命を繋ぐ水が、俺たちが人家に辿り着くことを阻むのだ。
 太陽が昇り、おまえとレペンチスタは狂ったように水と戯れている。水こそすべて、水さえあれば何も要らぬとでもいうような繰ぎぶりだが、すぐにそうでないことに気づかざるを得まい。俺たちは食料を手に入れなければならぬ。そして、向うに見える頼りない煙は、無論、食料の存在をほのめかしているのだ。
 俺は対岸の一点を凝視している。なぜなら、今し方、一人の人間が家から出て岸辺に立ち、じっとこっちを見ているからだ。俺は片手を上げてみる。奴も同じ様に片手を上げる。俺は上げた手を下ろしてみる。奴も下ろす。俺は別の手を上げて大きく振ってみる。奴も別の手を上げて大きく振る。俺は片足でぴょんぴょん跳んでみる。奴も片足でぴょんぴょん跳ぶ。俺はラジオ体操第二の前半をやってみる。やつもラジオ体操第二の前半をする。俺はためしに手旗信号をしてみる。奴もまったく同じ手旗信号を送り返す。信号の内容は「助けて! 助けて!」だ。
 おまえとレペンチスタはようやく俺の奇妙な行動に気づき、水から上がる。対岸に見えるボートを指差し、おまえたちは同時に叫ぶ。「ボートを!」
 もちろんだとも。俺はゆっくりと水に入り、ボートを漕ぐ動作をする。奴も水に入り、ボートを漕ぐ動作をする。だが、ボートは奴の右一メートルのところにある。俺は正確に移動し、ボートに乗る動作をする。やつは同じだけ移動し、そこには邪魔なボートがあるので戸惑うが、おれと同じ動作をした結果、結局ボートに乗ってしまう。しめた! 俺は渾身の力を込めてボートを漕ぐ動作をする。やつはボートを漕ぎ出し、対岸を離れてこっちへ向かってくる。やったぞ! 俺は両手を上げて喜ぶ。奴も漕ぐのをやめて立ち上がり両手を上げる。ボートは転覆しそうになりながら少し下流に流される。俺は慌ててボートを漕ぐ動作に戻る。奴も再びボートを漕ぐ。俺は必死に漕ぐ。奴も必死に漕ぐ。それでもボートは少しづつ下流に流されていく。俺は漕ぐ動作を継続しながら少しづつ下流に移動してゆく。おまえたちも無意識に俺と同じ動作をしながら、絶えず声援を送り、移動してゆく。
 奴のボートがようやく到着する。俺はやおらボートの舳先を引っつかんで乗る。もちろんおまえたちも乗る。やつは驚愕のあまり水に逃れようとする。俺はすかさず奴を羽交い締めにして留める。四人が乗ると身動きできないほど窮屈な上に、ボートのへりは水面とほとんど同じになってしまう。奴が少しでも暴れようものなら浸水して沈んでしまうだろう。おまえとレペンチスタが慎重にボートを漕ぎ出す。さらに下流に流されながらも対岸を目指す。俺は、腕の中の奴を観察する。驚いたことに、奴は大人の男ではなかった。しかも、人間ですらなかった。奴は猿なのだ。人真似子猿なのだ。〉

 蛇の目家の小奇麗なキッチンでは、すべてのコンロが使用中であり、オーブンも電子レンジも活躍しており、また、調理の熱を逃がすように、すべての窓が開け放たれていた。

 今、ここでは蛇の目氏が主任であり、長男の嫁は有能な助手であった。キッチンテーブルにはおよそ十三品分のレシピが並べられ、残る九品のレシピは冷蔵庫のドアに磁石で留められていた。塚本家の祝い事に料理を提供するためであった。
「ねえ、お義父さん、どうして斜面の家でやろうって提案したの?」
 質問が料理に関することでなかったために、蛇の目氏は一瞬惚けたような顔つきになって、開け放たれた窓から遠くを見た。
「梅ちゃんはね、ひとりぼっちなんだ」 
「だけど、お義父さんが毎日行ってあげてるじゃない?」
「ぼくひとりじゃだめなんだ。たくさんのひとに見てもらいたいんだ、梅ちゃんを。ぼくは、その、不安なんだ。確かにぼくはお弁当を持って毎日梅ちゃんとこに行く。梅ちゃんはしっかりお弁当を食べるよ。少しくらいは話もするよ。だけどね、それはぼくの目と耳だけが知っていることでしかないよ。だから、梅ちゃんという存在はぼくの妄想に過ぎないんじゃないかって不安になるのだ。ぼくの、ぼくの、なんていうかその、執着が、幻を見せてるだけじゃないかと不安になるのだ。執着であって愛ではないよ断じて。ぼくはかつて歯科医であったから梅ちゃんの類い稀な歯に執着があるんだ。執着であって愛ではないんだよ断じて」

 そう言ってから一瞬眼を瞑った。愛でないと言い切っていいのだろうか。 
「だからね、だからね、たくさんのひとに梅ちゃんを見てもらいたいんだ。そのひとたちの目を通して梅ちゃんが生きていることを確かめたいのだ。梅ちゃんがぼくの妄想でないことを確かめたいのだ」

 長男の嫁は「よしっ!」と気合いを込めて冷蔵庫のドアを開いた。「牛ロースのたこ糸しばり行程にかかりますっ」と言った。
「アイ、よろしくね」蛇の目氏は弱々しく答えた。


 塚本家の古ぼけた台所では主任も助手もなかった。塚本・母と沙汰砂子は完全に互角であり、作業はまったく個々の流儀で行われていた。否、ほんの少し前まではそうだった。しかし今、塚本・母の手元が乱れはじめた。
「お母さん、それ、なに作ってるの?」沙汰砂子が背後から覗き込み、そう訊いた。
「さばずしだよ。ヤッちゃん好きだからさばずし」三枚におろし骨を抜いたサバを、さらに細かく切り刻みながら、塚本・母が答えた。
「そうね。ゆうべ、たしかにお母さんそう言ってたわ。でもそれじゃさばずしにはならないと思うわ。どちらかといえばつみれ向きね」

 まな板の上の惨めなサバに呆然とし、塚本・母は言った。「ああ、サッちゃん、あたしゃなにやってるんだろ。あたしゃどうしたらいいんだろ」魚臭い手を拭いもぜずに沙汰砂子に取りすがった。
「しっかりしてお母さん。誕生会はあしたよ。だいじょうぶ、まだ間に合うわ」

 塚本・母の肩を抱いたまま小首をかしげ、三十秒ですべての段取りを組み直した。それから猛然と働いた。切り刻まれたサバを無駄にしないための妙案もすでに頭のなかにあった。


 その頃、塚本・父は六つある扉を順ぐりにノックしていた。四つ目を叩いたとき「へいきちさんなの?」と応答があった。狼狽のあまり後じさりしようとしたが、背後にぴったりついた沙汰達人の自信に満ちた胸に押し返され、思わず扉を開けてしまった。
「ども」と言い「へへ」と笑った。晒したように白く皺くちゃの顔をした老婆に見詰められ、怯えた視線を廊下のほうへ曖昧に彷徨わせた。そのあたりには用意してきた五つの紙袋が置いてあるはずだった。飾りつけの材料なのであった。怯えていたわりには言葉はひどくぶっきらぼうであった。「ここでやらなきゃならんことがあるもんでね」
「へいきちさんはどこ?」と老婆。ヘイキチさんがどこにいるか、塚本・父は知らなかった。そもそもヘイキチさんが蛇の目氏のことであるとは知らなかったのだ。
「あした塚本ヤスエさんの誕生会をここでやることになってるんです」塚本・父の頭越しに明快な声が流れ出た。「ここ、正確にいうとこの二階部分です。提案なさったのは蛇の目歯科医院の老先生です。このひとは塚本ヤスエさんのお父さんであり、おれはただの助っ人ですが、じゅうぶんな熱意をもって事にあたるつもりでいます。もしお許しくださるなら、すぐに仕事にかかります。迅速、静粛、手際がよくて仕事がキレイがおれたちふたりのモットーです」
「どうぞ」と老婆が答えた。沙汰達人の爽やかな弁舌の効果であった。塚本・父は再び「ども」と口ごもり、扉を閉めた。沙汰達人はすでに廊下の端に置いてあった紙袋を抱えてにっこり笑っているのであった。これから六つの寝室と、とりわけ廊下の天井は念入りに、金銀モールと紙製の万国旗、ピンク色に染めたチリ紙の花で飾るのだ。

 深夜、塚本・母が眠れずにいたのは、サバを切り刻んだ後悔のためではなかった。
「父ちゃん、ほんとにこのままでいいのかい?」

 妻同様に眠れずにいた夫は起き上がり、見上げる妻の手を取った。無言であった。

 ふたりは音も無く寝床を抜け出した。一人娘の乱脈な鼾の方角をそっと窺い、流れるように縁側から下りた。ふたりとも裸足なのであった。

 風はなく、月の光が満ちていた。夫は妻の顔を覗き見た。月に照らされたその顔は、青ざめてはいたものの、静かな決意で夫の眼を見つめ返していた。

 手に手を取ったふたりが目指したのは、遠く離れた畑であった。

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