『ユリス』十五章

 越中氏は淋しい山道を歩いていた。峠に差しかかったところでふと足を止めた。
 ずっと――二十年かそこら――以前に、刻限も今と同じ灯点し頃、ここで奇妙な風体の男に出くわしたのだ。男はゲルハルト・パンネンシュティールと名乗り、向こうの山の斜面を指差して、あれが自分の家だと言った。その家が今も見える。以前見たとき屋根に乗っかっていた黒雲は見当たらず、刻一刻と濃さを増す青紫の風景の中で、その家はオレンジ色に輝いていた。雲を貫く残照が一筋、そこだけを照らしていたのだ。
 わたしは、なぜ、こんなところに来てしまったのだろう? 越中氏は声に出してみた。が、問うまでもなく答えは知れている。ほかに行くべき場所がなく、ほかに行きたい場所もない。
 越中氏は再び歩き出した。

「ほんとにヤッちゃんにも見せたかったわ。お父さんたら信じられないくらいじょうずなんだもの」
 夜風の吹き通る塚本家の食卓で、沙汰砂子が言った。
 塚本・父は照れて仏頂面を決め込み、真っ赤なウィンナーソーセージを箸で突き刺し突き刺しして穴だらけにしていた。
「あらいやだ、お父さん、ウィンナーきらいだった?」
 塚本・父は慌てて穴だらけのウィンナーソーセージを口に放り込んだ。
「そうよね、お父さんウィンナー好きよね。お母さんもすごかったわ。もしかしたら、お父さんよりお母さんのほうが一枚上手かもしれないわね」
「いやだよサッちゃん、年寄りをからかって」塚本・母は顔を赤らめ、夫の前からウィンナーソーセージの皿を奪い取り、箸で突き刺しはじめた。
「だって、ほんとよ、お母さん。あとで大変な評判だったもの」
「それはほんとのことだぞ、母ちゃん」塚本・父が、ぼそりと言った。突き刺すべきウィンナーソーセージを奪われた今、スプーンの背でポテトサラダを真っ平らにのばす作業をはじめていたが、賞賛の言葉は真心から出たものだった。「母ちゃんはほんとにすごかったぞ。おれはしびれたね」
「いやだよ父ちゃんまで」
 二人はそれぞれの手作業に没頭している振りをしながら、そっと眼と眼を見交わした。愛と火花が飛び散った。来年は負けないぞ。
「金の雪まで降らせたのよ。ねえ、ヤッちゃん聞いてる? きれいだったわ。華やかで、楽しくて、おめでたくって。ほんとにヤッちゃんにも見せたかったわ」
「その話は聞きあきた」茶碗と箸を放り出し、塚本ヤスエはごろりと寝転んだ。
「いやだヤッちゃん、食べてすぐ寝ると牛さんになるわよ。そりゃそうと、ヤッちゃんゆうべはどこにいたの? あたしずいぶん探したんだから」
「うるさい! 何度も同じこと訊くな!」
 きのう、家を飛び出して滅茶苦茶に走り回ったあとで、結局いつもの川っぷちに戻ったのだった。日も暮れて、空っぽのトラクターと木箱がひとつ、侘びしげに取り残されていた。愚図のハン公ともうひとつの木箱はどこかへ消えていた。ひとりぼっちだった。小石をたくさん拾い集め、誕生日を忘れられた悲しさを込めて暗い川面に投げ込んだ。一個投げるごとに、父ちゃんのバカ、あるいは、母ちゃんのマヌケ、そしてコンチクショと呟いた。投げ込んだ小石は数知れず。それだけだった。けれど、そんなこと誰にも言えない。みっともなくて言えない。サッちゃんになんか、絶対言えない。
「来年からはもっと盛大にやろうって話も持ち上がってるのよ。ねえ、あなた」
「まあね」と、沙汰達人が言った。
 つい数時間前、青年団の有志が集まって『塚本ヤスエ誕生祝い実行委員会』が設立されたのだった。もちろん実行委員長に選ばれたのは沙汰達人だったが、今はめずらしく照れて、話題を変えた。
「おい、ヤッちゃん、起きろよ。食べてすぐ横になると牛さんになるぜ」
「あんたにヤッちゃんと呼ばれる筋合いはない!」
 塚本ヤスエはいよいよ反抗的に腹這い、モーと鳴きさえした。
 沙汰達人は笑いながら台所に消えた。戸棚を開ける音と、おーいお茶っ葉どこにしまったんだいと言う声が聞こえた。
 真っ平らになったポテトサラダの表面にスプーンで幾何学模様を描きながら、塚本・父は考えた。どうやら母ちゃんに相談するまでもなかったようだな。沙汰家の次男坊はなんの違和感もなく我が家の夕食に溶け込んでいるではないか。結納やら仲人やらのややこしい形式を踏まずとも、すっかり入り婿的な存在になっている。哀れな娘も心底嬉しそうだ。幸せになってくれよ。いまだにおまえの名前を思い出せないひどい父ちゃんだが、おまえの幸せを心から願っているんだよ。
 塚本・母はもう少し現実的なことを思い巡らせていた。四色畑の土地を只同然で譲ったあとずいぶん悔やんだものだけれど、今になって思えば先見の明だった。こうなったら家も土地も田畑も、一切合切譲ってしまおうか。もちろん只で。沙汰家の次男坊とサッちゃんならじょうずに運用するだろう。あたしと父ちゃんが死んだあとも、ふたりがヤッちゃんの面倒を見てくれるにちがいない、なんせたったふたりきりのきょうだいなんだもの。ああよかった。これで安心だ。
「ねえ、お母さん、ねえったら!」沙汰砂子はほんのすこし怒っていた。「ウィンナー穴だらけにするのやめて。食べないんならこっちへちょうだい。お父さんもポテトサラダで遊ぶのやめて。それ、明日食べるわ」
 誕生会の翌日、塚本家の夕飯はこんなふうに終了した。
 夜が更けて、家族が寝静まる頃になってもまだ、塚本ヤスエは頑固に腹這いになったまま、時折り、モーと鳴いていた。悲しいわけではなかった。ゆうべの悲しみはきれいさっぱり消えていた。腹を立てているわけでもなかった。腹を立てるべきことなどひとつもなかった。ただ、すこしだけ、きまりが悪いのであった。

「ちょっと、そこのあんた! そこのあんたとあんたとあんたとあんた!」
 厳しく呼び止める声がして、ナポリタン・カルテットの四人は階段の上がり端で振り返り、眼を凝らした。晴れ渡った朝の光のなかを歩いて来たから、斜面の家の内部はまだ夜のように暗く感じられたが、廊下の暗がりを白っぽい鶴のごとき影が突進してくるのが辛うじて見えた。鶴が誰何した。
「あんたがたは誰ですか」
「ナポリタン・カルテットです」局長が胸を張って答えた。
「ナポリタン・カルテットです」他の三人も胸を張って言った。
 おとといの催しで演奏して以来、すっかり自信がつき、堂々と名乗ることができるようになっていた。
「そのナポリタンなんとかが、どこへ行くんです?」厳しく鶴が訊いた。
「二階へ」尾花が代表して答えた。
「何をしに二階へ?」
「音楽の練習をしに、二階へ、二階へ」局長と蜻蛉淵が声を揃えて歌った。
「なぜ?」
「楽器を置きっぱなしにしてるからだヨ」虎松が朗らかに言った。ちょっと考えてから、リズムを整えて追加した。「おととい ここの二階でさ 演奏 演奏 演奏したんだヨネ」
 蜻蛉淵がステップを踏みながら続きをやった。「楽器も 持ってきたんだよ ギギギギギターにマンドリーン アコーディオンもあるんだぜ イェイ!」
 尾花と局長がスキャットとボイスパーカッションで加わった。
「道なき道の斜面をさ 楽器を担いで きたんだよ ギギギギギターにマンドリーン アコーディオンは重いんだ イェイ!」
 息もぴったりに皆がブレイクし、いかにも間の抜けた調子で虎松が、
「また持って帰るのは難儀なもんでヨ」
 再び息を揃え、ステップを踏みながら四人は歌った。
「ここの二階が おれたちの 練習 練習 練習場 ギギギギギターにマンドリーン アコーディオンも絶好調 イェイ!」
 微動だにせず聴いていた鶴が両手を挙げて制止した。
「わかりやした。ある程度は、わかりやした。この家は、あたしが想像していたよりずっと賑やかな、解放された家であるらしいことが。先刻も、あんたがたが来る少し前ですが、しゃがれ声の一団が二階へ上がっていくのが聞こえました。どやどやと。どやどやと、ですぞ。まったく、それであたしゃ起こされたんだ」
 その一団とは、たぶん勝ち気な老人たちだろう、と尾花は思った。思ったけれど口には出さなかった。
「もう行ってよろしい」と鶴が言い、すぐにまた、「ちょっと待ちなさい。この家の所有者はどこにいるかご存じか?」と訊いた。
「所有者?」四人は顔を見合わせた。
「愚図愚図した、ぼんやりした、間抜け面の青年でやすよ」と、鶴。
「ああ、あの子なら、あすこの」と、虎松が台所脇の小部屋を指して言った。「ちいさい ちいさい ちいさい部屋に きっと おそらく」
「おそらく たぶん パーハップス」と、蜻蛉淵が続けた。
 鶴は慌てて手を挙げて制止した。
「わかりやした。あの小部屋ですな。もう行ってよろしい」が、すぐにまた、「ちょっと待ちなさい。この村に虎松というひとはいますかな? 歌わずに答えなさい」
「虎松はおれだヨ」きょとんとして言った。もちろん歌わなかった。
「では、あたしに訃報を送って寄越したのは、あんたですな?」
「フホウ?」
「この家の元持ち主が死んだという知らせですよ! これです、これ!」
 鶴は上着のポケットから封書をつまみ出し、突きつけた。
「ああ、それね」虎松は人なつこい笑顔で言った。「それを出したのはおれだヨ。あのおひとの机の引き出しをヒョイと開けてみたらヨ、住所変更並びに新事務所開設のお知らせっていう葉書が出てきたんでヨ、知らせたほうがよかろうと思ってヨ。礼にゃおよばねえヨ」
「礼を言うつもりはありやせん。文句を言うつもりでやす」
「その封筒に消印を押したのはわたしです」横から局長が抗議した。「その封筒にはひとつも欠陥はありません。住所もきちんと書いてあり、切手もしっかり貼ってある。それだからこそ消印を押したのです」
「封筒じゃなく、中身に文句を言うのです」
 鶴は中身を取り出し、読み上げた。
「あのおひとが死にましたのでお知らせします 虎松」
 シンとした。
 局長も、これには弁護の言葉がなかった。
 虎松は真っ赤になってうつむいていた。
「なんですこれは! なっちょらんですな、まったく。あのおひと、とは何です? あたしがこれほど勘の鋭い人間でなかったら、誰が死んだのやらまるでわからなかったでしょうな。あのおひと! ふんっ!」
 局長は突然思い出した。反撃のチャンスだった。
「もしかして、あなた、この家の若者にお金を送りませんでしたか?」
「送りましたとも。それがなにか?」鶴はこれ以上無理というほど眉を釣り上げた。
「お金を同封する場合は書留にすべきなのです。あなたは普通の封筒をお使いになりましたね。それは間違いなのです。それに宛て先の書き方も不正確でした。今でもはっきり覚えています、桃の里村、屋根の上に暗雲を乗っけた二階家、ハンス殿。屋根の上に暗雲を乗っけた二階家などという住所はありません。わたしが機転をきかせなかったら、あの手紙は届かなかったでしょうな。かく言うわたしは桃の里郵便局の局長です」と、胸を張った。
 鶴は眉をぐっと下げた。「さいですか。今後は気をつけることにいたしやしょう。もう行ってよろしい」
 最後に、尾花が訊いた。「ところで、あなたは?」
「越中行太郎。この家の管財人、のような者、と申しておきやしょう」


 ハンスは眠り呆けていた。苛烈な季節が過ぎ去るにまかせ、新しい爽やかな季節の到来を待つ、そういう眠りであった。

 ロープをかけられた木箱は小部屋の真ん中に居座ったままであった。なぜなら、真夜中、ハンスは目覚めなかったのだ。従って木箱を担いで川っぷちへも行かなかったし、当てのないユリス捜索の旅へも出なかった。目が覚めたのは昼ちかい時間であり、木箱をテーブル代わりに蛇の目氏の弁当を食べ、しばらくぼんやりした後、性懲りもなく昼寝に突入し、そのままずっと眠り続けているのであった。眠りの中で、ユリス捜索の意志は挫けつつあり、脳にこびりついた手紙の文句を入念に洗い流し、次に目覚めた時にはまるで何事もなかったかのように平穏な日常――もし、可能ならば、だが――に立ち返るつもりの、今はそういう眠りであった。
 が、眠りは破られた。
 ガラガラガッシャンとガラス戸が開いて、不機嫌な鶴が立っていたのだ。
 ハンスは寝惚け眼を擦った。「あれ? あなたは、たしか」
「越中。越中行太郎でやす! 昨夜遅く真夜中過ぎ、さんざっぱら道に迷った末にこの家に辿り着きやしたが、なんと、玄関が開きっ放しになっておりやした! 不用心かつだらしがない! しかしね、ハンス君、あたしは、玄関扉が開いているからといってコソ泥みたいに侵入するような礼儀知らずじゃありやせんよ。押しました、押しましたとも呼び鈴を。この親指を捻挫するほど強く、何度も押しました。押しましたがリンともリリとも鳴りやせん呼び鈴が! 呼び鈴は壊れておりやす、完全に壊れておりやす呼び鈴は! 仕方なく書斎らしき部屋に入り、朝を待つことにしやしたが、それがあんた、あの部屋は百年分くらいの塵と埃が積もって、容易に寝られやしませんや。重苦しいカーテンを引き開け、錆びついた窓を蹴り開けて」
「あのう、越中さん、なぜここに?」ハンスは質問を差し挟んだ。
「それを今、話しておりやす!」越中氏は一喝した。が、不機嫌は上機嫌に移行したらしく、埃まみれの頬には赤味と笑みさえ浮上していた。「重苦しいカーテンを引き開け、錆びついた窓を蹴り開けて、奮闘すること三時間。ようやく少しはマシになり、残りは明朝と踏ん切りをつけ、椅子に腰かけ眠りかけた頃合いに、どやどやがやがやと喧しい連中が二階へ上がってゆく音で、エィいまいましい、起こされやした。腹が立つと、もう眠れやしませんや。あきらめて、ハンス君、あんたを探そうと書斎を出た途端、またしても妙な連中が侵入してきやした。ひとの質問にわざわざヘボな歌で答えたりする巫山戯た輩でござんすよ」
「あのう、越中さん、ぼくにどんなご用で?」恐る恐るハンスは訊いた。
「黙って最後まで聞きなさい! 開きっ放しの玄関といい、壊れっ放しの呼び鈴といい、不審なる輩を好き勝手に出入りさせていることといい、この家の管理はなっちょらんですな! ハンス君、所有者であるあんたは、管理もきちんとすべきでやすが、どうもその能力がないらしい。よござんす、よござんすとも、あたしが代わりにやりやしょう。あんたは好きなだけぼんやりしておってよろしいよ。ところで、あんたの質問は何でしたかな。おっと、そうだ。あたしがここに来た理由? そりゃあんた、当分この家に逗留するためでやすよ。それから、あたしがあんたを探した理由? ひとつは、当分この家に逗留することを、所有者であるあんたに了解してもらうためでやすよ。よござんすね? もちろん、よござんすね? それから、もうひとつの理由、これをあんたに渡すためでやすよ」
 越中氏は懐から数枚の紙を摘み出し、ハンスの鼻先に突きつけた。
「以前にも申しやしたが、この家のものはすべて、御母堂以外すべて、あんたのものでやす。この紙は書斎の机の脇に落ちておりやした。当然これもあんたのものでやす」
 ハンスはじっと紙を見つめた。見なれた便箋に見なれた文字。ゲルハルトさんの手紙だ。もしかして、これが本当の、最後の一通なのだ。きっとそうだ、これを書いている最中にゲルハルトさんは死んだのだ。
 〈だが、俺の物思いも、そしてツツカルどもが演じる大騒ぎの猿芝居も続けることはできなかった。ユリスよ、なぜだと思う? 遠くで甲虫の羽ばたく音がしたのだ。だが、それは――〉
 ハンスは紙に手を伸ばした。が、紙はスッと持ち上げられた。
「おっと、言い忘れたことがひとつ。書斎の電気スタンドが点けっ放しになっておりやした。よろしいか、電気は点けたら消すもんでやす」
 上機嫌の最高潮に達した越中氏の手から、やっと紙はハンスの手に渡った。
 その時、勝手口を叩く控え目な音がした。
「あたしが出やす。もう、勝手な侵入は許すもんじゃありやせん」
 越中氏は躍り上がらんばかりに高揚し、小部屋の引き戸をビシャリと閉めた。


 勝手口の訪問者二名は、しばし口を空いたまま、目の前の見知らぬ鶴を眺めた。埃まみれの鶴はかん高く、「なんのご用か? なんのご用か?」と鳴き続けていた。十ぺんほどその声を聴いたところで、ようやく一名が我に返り、用件を思い出した。
「ちょっとお願いがありまして」
「そのお願いの中身をさっさと言っていただきたい!」と、鶴。
 残る一名が慌てて言った。「あのおひとの」
「あのおひと! ハッ! またしても、あのおひと!」
 鶴は「あのおひと!」と十ぺんほど鳴いた後、言った。「あのおひとが、どうかしやしたのか?」
「へぇ、あのおひとが生前いつも身につけておられた、そのう、あれやこれやを、ちょっとお借りいたしたいのでありまして」
「あれやこれや! あのおひとの次は、ハッ! あれやこれや、とは!」
 勝手口の訪問者二名は顔を見合わせた。鶴は怒っているとは思えない、むしろ上機嫌に鳴いている。が、あれやこれやを具体的に説明する必要はありそうだ、と口を開きかけた矢先、鶴は唐突に飛び去った。
 待つことしばし。
 黒い塊を抱えて、鶴が戻った。
 それは、書斎の帽子掛けにぶら下がっていた帽子と外套らしき布だった。
「あれやこれやとは、これですかな?」
「ああ、それです。ちょっとお借りいたします」
 二名が手を伸ばしかけた途端、鶴は一歩飛び退った。
「このあれやこれやはすべて、この家の所有者の所有に属するものでやす。あたしは所有者じゃありやせんから、ただお貸しするわけにゃいきやせん。そうですな」と、ちょっとわざとらしく小首を傾げてから、続けた。「所有者の考えを代弁して、レンタル料を申し受けることにいたしやしょう。いかがですかな?」


 〈だが、俺の物思いも、そしてツツカルどもが演じる大騒ぎの猿芝居も続けることはできなかった。ユリスよ、なぜだと思う?
 遠くで甲虫の羽ばたく音がしたのだ。だが、それは無論、甲虫なんかではない。銀色のプロペラを楽し気に回転させて、小型のヘリコプターがやってくるのだ。
 ヘリコプターは俺たちの頭上に少しの間浮かんでいたが、ゆっくりと舞い降り、うっかり者のツツカル約半数と粗末な小屋の殆どすべてを風圧で薙ぎ倒したあと、静かに着陸した。ツツカルどもは赤く染まった歯を剥き出してワラワラと群がった。
「これはこれは、伝説のツツカル族と思しき諸君、ご機嫌よう」手を振りながら降り立った男が言った。それは、かの忌々しいエッチューリョ氏なのであった。
 ツツカルどもの頭越しに、俺は叫んだ。「俺を乗せてくれ!」
「もちろんですとも。乗り賃は後日でよござんすよ。で、どちらまで?」
「上等の大納言小豆を買えるところへ!」
「じゃあ、あたしの行き着けの乾物屋――〉
 越中氏から渡された手紙はここで終わっていた。
 だらしなく消えかけていたユリス捜索への思いが再び沸き上がった。乾物屋だって? こんな出任せ、はったり、与太話を間に受けてユリスを捜そうとしているなんて馬鹿げている、と頭の隅で思わないでもなかったが、手がかりはこれしかないのだ、と拳を握りしめた。
 今夜こそ! 今夜ならば寝過ごして機会を逸する心配はない、つい先刻まで眠り続けていたのだから。木箱を川っぷちに置いたら、その足で、ユリス捜索の旅にでるのだ、たったひとりで。
 木箱のロープの具合を確かめ、夜が更けるのを待った。
 ところで、ハンスの尻の下には小さな紙片があった。越中氏から渡された便箋の間に挟まっていたのが落ちたまま、ハンスは気づかず尻の下に敷いていたのだ。紙片に描かれた文字は、かろうじて〈ユリスは あんたが だいきらい〉と読めた。


 あの日、ゲルハルトが死んだ日の朝、ハンスはいつものように手紙を届けに行った。が、塚本ヤスエはいつもと違った。「ちょっと待ってな」と言ったのだ。
 下駄箱の上には塚本家の流儀でメモ用の一式が常備されていた。小さく切った反古紙の束に重しの石ころを乗せてあり、そばにチビた鉛筆が転がっているのだ。
 塚本ヤスエは反古紙の一枚を柱に押し当て、チビた鉛筆で書いた。
 〈ユリスは あんたが だいきらい〉
 恐ろしく稚拙な文字であったが、それだけではなかった。柱はひどくデコボコで、その柱に釘で打ちつけるがごとき強烈さで書いたために紙には何箇所も穴が空き、返事というよりは呪いの紙片というべきしろものだった。それを小さく折り畳み、投げて寄越した。
 常々厳しく戒められていたから、ハンスはもちろん読まずに持ち帰った。
 ゲルハルトは紙片をひったくり、即座に書斎の扉を閉めた。
 しばらくして、獣の咆哮と大きな物音が聞こえたが、ハンスは三畳の自室を出なかった。用もないのに書斎に行く習慣はなかったのだ。
 〈ユリスは あんたが だいきらい〉が、ゲルハルト・パンネンシュティールの丈夫な心臓を鷲掴みにしたのだ。

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