『ユリス』十六章

 なんともはや、そこは逃亡者に相応しい場所だった。
 暗く、狭く、息苦しいけれど、人の目に晒されずにすむ。
 ハンスはもう長い時間閉じこもっていた。
「ねえ、そろそろ出てきたら?」
 ドアを隔てて、柔らかく説得を試みる声がする。けれど、ハンスはまだそんな気分じゃない。うずくまったままだ。
 明るくて調子っぱずれの声は、急いているふうでもなく、どちらかといえば暢気に話しかけてくる。いつもそうなのだ。
「きょうはずいぶん寒いね。そこは暖房もうまくゆきわたらないから、ずっとそうやってると風邪を引いてしまうよ」
 冬になっていた。あれからもう四箇月。


 夏も終わろうとしていたあの日の夜更け、木箱を背負って勝手口を忍び出ようとしたハンスは、鋭い声に呼び止められた。
「待たれよ!」
 懐中電灯を振りかざしているのは越中氏であった。
「なんとまあ、あんたでしたかハンス君。不穏当な物音がしたもんで、あたしゃまた泥棒かと。いや、失礼した。あんたがあんたのものをどこへ持って行こうとあんたの自由でやす。いや、失礼した」
 立ち去る越中氏の背に、ハンスは馬鹿正直に訂正した。
「この木箱はぼくのものじゃありません」
 越中氏は鋭く立ち止まった。
「なんですと!」
「塚本ヤスエさんのものです。だから、ぼくは、そのう、返しに……」
 言い淀んだ。返しに行く、というのは正確ではないと思ったのだ。川っぷちに放置して、そのまま旅に出るつもりなのだから。
 越中氏の反応は至極まっとうだった。
「こんな真夜中に? よそ様のお宅へ、ですかな? 泥棒に間違われるような格好で、ですかな?」
「すみません。返しに行くんじゃありません。つまり」苦し紛れに飛躍した。「ぼく、乾物屋を探しているんです。上等の大納言小豆を扱っている乾物屋を」
 激しく後悔した。
 だが、越中氏はハンスの飛躍に応えた。
「乾物屋ですと? そんならピカ一の乾物屋を教えやしょう。小さくて小汚い店ながら、こだわりの品揃え」
 飛躍は上機嫌を誘発した。
「もちろん大納言小豆も粒選りでやしてな、とりわけ饅頭の餡こにすれば絶品でやす。少々遠いが、行くだけの価値はありやすよ」
 上機嫌はとどまるところを知らず、ふりかざした懐中電灯をせわしなく点滅させる無意識の指の動きに煽られて、いよいよ昂揚した。
「もしも、あんたが遠出をする場合、あたしはここに、この家に居て、この家を管理運営しつつ、出来る限りあんたを援護するでやしょう。あはーん」
 さらには旅費その他を用立てる約束をし、今は無人の《越中探偵事務所》を宿泊に利用することさえ許可した。なぜなら、越中氏推薦のピカ一の乾物屋は《越中探偵事務所》の斜向かいにあったからだ。
 翌朝、上機嫌を保ったままの越中氏に追い立てられるように、ハンスは旅立った。


「寒くない? だいじょうぶ? 外は、雪でも降りそうな空模様になってきたよ」
 ドアを隔てた声はいよいよ優しく、説得というよりも気遣いの色を帯びている。
「匂いもするよ、雪の降りそうな空気の匂い。ぼく、鼻がいいんだ、すごく。それはともかく、ハンちゃん、おなか空いたろう。お昼食べる前にそこに入ってしまったんだものね。もうすぐ夕方になるよ。ハンバーガーでも買ってこようか?」


 東京の越中探偵事務所でちっぽけな荷を解いたあと、ハンスは愕然とした。この旅の目的はもちろん、行方不明のユリスを捜すことなのだったが、それは手紙の世界のこと。現実の、しかも東京みたいな街に本当にユリスが生きているなんて考えられない。そんなわかりきったことを脇へ押しやって旅に出たのはなぜなのか? もしかしたら残酷にも、ゲルハルトさんの手紙から逃れたかったのかもしれない。もしかしたら卑怯にも、塚本さんからも逃れたかったのかもしれない。もしかしたら、この旅の本当の目的は、逃亡であるのかもしれない。
 そんなふうに嘆きながら薄らぼんやりと外へ出てみたのは迂闊だった。ふと立ち止まったのはさらに迂闊だった。そこは越中氏お勧めの乾物屋の前だったのだ。
「あんた、何かお探しかい?」大声で、店主が言った。
「ええ、まあ、ユリスをちょっと」ハンスは答えるともなく答え、「でも、もういいんです。どうせ見つかるはずがないんだし。ぼくは、もう」たぶん逃亡するつもりなんだし、と、行こうとした。
「ちょいとお待ちよ。ゆりすだと? どうせ見つからないだと? 聞き捨てならねぇな」
「じゃあ、ユリスをご存じなんですか!」ぐらり、とユリス捜索の方に傾いた。
「ご存じですかだと! おれはな、おぎゃあと産まれたその時から乾物屋だスットコドッコイ。ゆりす! そいつぁ大変に珍かなシロモノだぜ。珍味中の珍味だ。なんと、きのうまではうちにあった。だが、きのう売れちゃった。代わりにこれなんかどうだ?」
 店主はがさごそとそこらを掻き回し、干涸びた球根らしきものを掴み出した。「これ、百合根だ。きんとんにすると旨いぜ」
 ハンスは懸命にかぶりを振った。
「だめか。ちぇっ、しょうがねぇな。じゃ、東京都乾物屋協会に連絡して探してもらおう。ナニ明日にゃ一個か二個ぐれぇは見つかるだろうよ。あんた、名前は?」
 店主は黒い電話器に手を延ばした。
 悪夢だ――これは悪夢に違いない。悪夢なら、逃げなくちゃ! ハンスは走り出した。見知らぬ街を闇雲に走った。走りながら、やっぱり絶対に逃亡するんだと心に決めた。見知らぬ通りの見知らぬ建物、見知らぬ夕刻の見知らぬ雑踏を走り抜けた。一瞬とはいえ、ユリス捜索に心が傾いたのは間違いだった、ぼくはなんて馬鹿なんだ! 我が身を拳で打ちながら、ハンスは走った。見知らぬ犬が吠えかかり、見知らぬ飼い主が犬を叱るのを横目で見ながら、ハンスは走った。悪夢の中を走っているにしては、足が確実に地面を蹴り、歩数のぶんだけ確実に前進しているのはかえって不思議だなと思ったが、そんな些末な疑問にかかずらわってる場合ではないと一蹴し、ひたすら走った。
 筋肉と心臓に限界が来て倒れる寸前、悪夢からの脱出口が見えた。
 それは、小さいながら美しい店だった。ガラスのドアとガラスの壁はきれいに磨かれ、静かに、穏やかに存在していた。青黒く暮れゆく不穏な風景の中にあって、店の内部はやわらかな昼の光に満ちていた。
 ハンスは吸い寄せられるようにガラスのドアにへばりついた。懐かしさに涙があふれた。等間隔に立ち並ぶ棚にきちんと並べられた背表紙、ここは、本屋さんだ!
 さらにハンスの感傷を盛り上げたのは、ガラスのドアに刻印されたロブスター。それは、斜面の家の慣れ親しんだ書庫の扉にあったものにとてもよく似ていた。ハンスはロブスターのハサミを指でなぞったあと、ドアの取っ手を探した。だが、取っ手はどこにも見当たらなかった。
 書架の間から大きな男がやってくるのが見えた。紺色の少し窮屈なエプロンをきりりとしめて、小走りにドアに近づくと、どんと跳躍した。ドアは音もなく開いた。
「ごめんね、きょうは自動ドアの調子が悪くて」と、明るい調子っぱずれの声で言った。「どうぞ。お入りよ。遠慮しないで。で、いつから来られる? うちとしちゃ明日からでも来てもらいたいんだけど、どう? あ、その前に、時給はあれでいい? いや、駄目って言われてもそれ以上は出せないんだけどね。何しろ、ぼく、雇われ店長だからさ。ま、仲良くやろうや。ぼくは場安」
 大きな男はハンスを雇うつもりらしかった。確かに、ロブスターの右下あたりに求人の貼り紙があったかもしれない。でも、ぼくは、なにもこの店で働きたいわけじゃ……が、ハンスは考え直した。越中氏が用立ててくれたお金は逃亡生活を支えるに充分とはいえなかったし、本たちに囲まれて働くのも悪くない。見知らぬ街の見知らぬ事物の中で、本たちだけは旧知の間柄。もちろん、ぼくの知らない本もたくさんあるだろうけれど、読めばいいのだ。時折り仕事の手を休め、本を手に取り、開けばいい。開けば、本は語りかけてくる。
 だが、それは間違いだと、翌日には判明した。
 雇われ店長・場安とお揃いの紺色のエプロンを着け、手始めに棚から一冊抜き出して開いてみた。それは本ではなかった。まるで見知らぬ物であった。
「おや、ハンちゃんはそういうのが好きなの?」雇われ店長・場安がカウンターから声をかけた。「ぼくも、それ、大好きだ。趣味が合いそうだね、ぼくたち」
 ハンスは振り向いた。だが、絶望の底から救いを求める新入りアルバイトの眼差しを、雇われ店長・場安は見てはいなかった。三色のマジックインキを駆使してポップ広告を描いていたのだ。場安店長のオールタイム・ベストテン、とかなんとか。
「マルクス兄弟はそれが一番だね。我輩はカモである、ね。兄弟っていえば、ぼくはブルース・ブラザースも好きなんだ。監督はジョン・ランディスね。ジョン・ランディスっていえばサボテン・ブラザースもいいね。ちょっと変わったところではビートル・ジュースが好き。ティム・バートンね。ティム・バートンていえばナイトメア・ビフォア・クリスマスだよね――」
 見知らぬ言葉が次々流れ出るのを、見知らぬ音楽のように聴きながら、ハンスは手にしたものを眺めた。四人の風変わりな男たちが並んでいる白黒写真の上に書かれたタイトルは、《我輩はカモである》。
 レンタルビデオショップ《ロブスター》の棚に並んでいるのは本ではなく、無論すべて、ビデオテープなのであった。
 このようにして、ハンスは無知と無力の奈落に滑り落ちたのであった。それでも労働時間の半分はレジスターの前で頑張った。残り半分は、こうして従業員用トイレに閉じこもり、無気力の底で眠り込もうとする自分と、果てしない逃亡を夢見て胸騒がせる自分とに折り合いを付けさせる必要があったのだ。


「ほんとに雪が降ってきたよ。もう夕方になったよ。ハンバーガーを買いに行こうかと思ったんだけど、君がそこに入ったままで、ぼくまで出かけてしまったらお店に誰もいなくなっちゃうから、それはちょっとまずいかもね」
 ハンスは、この店で働くようになってはじめて食べたハンバーガーなるものを思い出した。腹が、きゅるると情けない声で鳴いた。
「ハンちゃんは時々そうやってトイレに入って出てこなくなっちゃうけど――いや、ぼくは怒ってるんじゃないんだよ――もしも、もしも仕事に自信がなくなってそうするんだったら、それは間違ってると思うよ。だって、君はちゃんとやっているじゃないか。レジスターだってバーコードリーダーだって、じょうずに扱えるようになったじゃないか。ぼくはとても助かってるよ」
 このように、雇われ店長・場安はいつも優しかった。徹頭徹尾、優しかった。
 ハンスは、心優しい人々に支えられてやっと生きている自分を情けなく思った。蛇の目先生にも優しくしてもらったし、あの越中さんだって――


 越中氏からは毎月の終わりに書き留めが届いた。封筒の裏には〔よくできました〕という小さい桃色の判が押してあった。それは、桃の里郵便局長お手製の芋判であった。
 書き留めにはいつも手紙が同封してあった。長いときもあれば、短いときもあった。
 〈東京の暮しはいかがでやすか? 些少ながら送金いたしやす。村の連中は律儀なもので、《あのおひと》一式のレンタル料をきちんきちんと届けにきやす。その中からあたしの諸々の手間賃等と、先にあんたに用立てた旅費その他を引かせていただき、残りを送ることにしやした。異存はござんせんね?〉
 もちろん、異存なんてない。感謝している。お金だけでなく、桃の里の様子を報せてくれる手紙にも。


 越中氏の手紙が一部伝えているように、桃の里では、毎日のように《あのおひと》が疾駆していた。

 老若男女を問わずほとんどの住人が持ち回りで《あのおひと》に扮し、ゲルハルトの死によって途絶えていた習慣に渇いていたものか、本物の時よりもずっと頻繁に儀式は行われていた。無論、本物がその身に纏っていた陰鬱さいかがわしさには及ぶべくもなかったし、特に厄介事を嗅ぎつける才能に恵まれていたわけではなかったから、当てずっぽうに走り、当てずっぽうに問題の家を選んでいた。選ばれた家では、以前よりは少額ではあるにせよ、きちんと金を包み、儀式を本物らしくする努力を惜しまなかった。半紙に包まれた金は一箇所に集められ、管理、運用されていた。

 沙汰達人がその任に当たったのは当然というべきだろう。集まった金の約三分の一を『塚本ヤスエ誕生祝い実行委員会』の運営資金に当て、残りを《あのおひと》一式レンタル料として定期的に斜面の家に届けていた。

 思いがけず資金を得た『塚本ヤスエ誕生祝い実行委員会』はいよいよ盛り上がり、桃の里集会所の大きい方の会議室に本格的な本部を設置し、議論と製作と実験に精出した。そのすぐと下、一階の音楽室は塚本夫妻が利用していた。畑仕事の合間に来年の出し物を練っているのであった。畑で人目を避けながら稽古をする必要はなくなり、完全防音のおかげで奇矯な声や罵声や怒号が外に洩れる気遣いもなく、とても効率的であった。

 また、テーマ曲『お誕生日おめでとう 塚本ヤスエさん』は、ナポリタン・カルテットによってコーラス用やら小節をきかせた浪曲調やら様々にアレンジされ、集落じゅうに敷衍した。

〈そうそう。お預かりしていた例の木箱は、あたしが責任を持って塚本ヤスエさんにお返ししやした。はじめてお目にかかりやしたが、一風変わった御婦人ですな。日がないちんち川っぷちに寝転んで、そこいらの葉っぱを千切っては噛み千切っては噛みしておられやす。この村の連中が四六時中歌っている歌が、この御婦人の誕生日を祝う歌だということを、あたしは最近になって知りやした。ちょうどお目にかかった折りにも、小学生の一団がこの歌をコーラスしながら通りかかりやしたが、当の御婦人、嬉しそうな顔もせず、むしろ苦虫噛み潰したように、噛んでおった葉っぱをぺっぺと吐き散らしたのにはびっくりしやした。村の何人かに取材したところ、この御婦人が何を考えているのかは誰にも判らない、今までずっとそうだったし、これからもずっとそうだろう、とのことでやした、蛇足ながら。〉

 塚本ヤスエに関する記述は、ハンスの胸に葛藤をもたらした。葉っぱを千切って噛むという行為は、逃げ出したぼくのことを怒っているからだろうか? それとも、からかう相手がいなくなって淋しがっているのだろうか?
 この中途半端な逃亡生活を切り上げて、桃の里へ帰ろうか。
 ハンスは、実のところ、揺れていた。
 帰ろうか、桃の里へ。
 越中氏の手紙にはハンスの郷愁を煽る要素がふんだんにあったのだ。

〈あんたが所有し、あたしが管理を任されているこの家に、不特定多数の人間が出入りし利用している事実を、どうか受け入れていただきたい。あいや、利用しているといってもほとんどは二階部分でありやして、亡きゲルハルト・パンネンシュティール氏の高齢なる御母堂が、連中との交流を楽しんでおられるとあっちゃ、あたしとしても、否やはどうにも言いにくい。

 具体的に申しやすと、まず、おそろしく気の強い年寄りどもが、朝は暗いうちからやってきまして御母堂を取り巻いて騒ぎやすな。それから、ナポリタン・カルテットと称する四人組が寝室のひとつに楽器を置きっぱなしにしておりやして、そこをそのまま練習場にしておりやす。たまには年寄りども(御母堂含む)のために慰労演奏会などやっておるらしいので、あたしとしても、あまり文句も言えやせん。

 あとは、時々、沙汰達人という気取った御仁がやって来て、ジョイントとかコラボレだとか申しやして、一緒に連れてきた塚本夫妻とナポリタン・カルテットにあれやこれややらせて、あーだこーだ言っているのを聞いたことがありやす。実を申せば、このジョイントだかコラボレだかを、いっぺんあたしも見学したのでやして、まあ喧しいこと馬鹿馬鹿しいこと類を見ませんな。〉

 老いた二階の女王は、寝室から一歩も出ることなく、世間の殆どと接することができるのだった。世間のほうでも、この女王を敬い、大切にした。

 楽しい喧噪の最中にあっても、女王はふと窓から外を眺めることが、度々あった。運が良ければ、疾駆する息子の姿を見ることができるからであった。無論、それが本当の息子でないことはよく知っていた。けれども、ああ、タケちゃんが走っているよ、ああ、タケちゃんが角を曲がったよ、と小さい声ではしゃぐのだった。

 竹造、というのが、息子の本当の名であって、ゲルなんとかかんとかなどという可笑し気な名のことを、女王は知らなかった。

 〈あたしは、ほとんど二階部分、と書きやしたが、実は一階を利用している人もありやす。いや、ほんの一部分でしてな、具体的には台所でやす。蛇の目歯科医院の老先生が占拠して、あろうことか改造してしまい、荒れ果てた台所が見違えるようにピカピカになっておりやす。本来、改造などという暴挙には厳しく対処すべきでありやすが、老先生、年寄りども(御母堂とあたし、含む)の昼飯や晩飯の弁当を提供してくださっておりやすので、あまり文句も言えやせん。そもそも老先生が改造に踏み切ったのは、この大量の弁当を効率良く作るためでやした。

 最後に、亡きゲルハルト・パンネンシュティール氏の使っておられた書斎は、見違えるように明るく清潔になりやした。あたしがここにいる限り、塵ひとつ埃ひとつ許すもんじゃありやせん。

 いつか、あんたがお戻りになって、この家の変貌を目の当たりにしても、びっくりしたり腰を抜かしたり、はたまた怒りに我を忘れたりなさらぬよう、お願い申しやす。〉


「雪が積もったよハンちゃん! おどろいたなあ、あっという間に積もったんだ」
 雇われ店長・場安ははしゃいでいるようだった。
「雪がたくさん積もると、いろんな音が消えるんだね。はじめて気がついたよ。すごく静かなんだよ。表の道にはいつもどおりにたくさんの人が歩いているし、車だってたくさん走ってるのに、すごく静かなんだ」
 否、はしゃいでいるというよりも、どことなく落ち着きのない声であった。
 ハンスは立ち上がった。出る頃合いだった。
「ハンちゃん、実はね、ぼく、ちょっと差し迫って――」
 場安が言い終わらないうちに、ハンスはドアを開けて外へ出た。入れ違いに場安が飛び込んだ。


 ちょうどその頃、ビデオレンタルショップ《ロブスター》から地下鉄で一駅離れた越中探偵事務所に、郵便配達員が到着した。思いがけず積もった雪を警戒して慎重にバイクを走らせた結果、配達すべき最後の一通を届けたときにはすっかり陽も落ちていた。
 書き留めですよー、と呼んでみたが、曇りガラスの向うは暗く、人の気配はなかった。
 ドアの隙間に不在通知票を差し込んで、郵便配達員は立ち去った。


 ハンスがトイレから出ると、一人の客がカウンターから身を乗り出し、否、身を乗り出すというよりも、カウンターを拠り所とし、あるいはカウンターにしなだれかかり、すいませーんすいませーん、と呼んでいた。
 ハンスは、骨を抜かれたイルカを想像した。
 腫れぼったくて愛嬌のある眼をまたたかせ、客は言った。「ロスト・チルドレンない? ジャン=ピエール・ジュネのロスト・チルドレン。ない?」
 やっぱりどう見ても骨を抜かれたイルカだと、ハンスは思った。脂肪たっぷりの二本の腕をカウンターに投げ出して、それを吸盤代わりに、ずり落ちそうな体をやっと支えているように見えた。

「ロスト・チルドレン、ない? ありそうな棚は、探してみたんだけど、ないの。もしかして、貸し出し中?」客は、湿っぽい息も途切れ勝ちに、そう訊いた。
「すみません。ぼく、まだ、いろんなことがわからないんです。店長が戻ったら聞いてみます。店長は今、トイレです」
「そう。あんた、新しいバイトのひと?」
「新しくはないと思います。もう四箇月になりますから」
「四箇月! てことはつまり、おれ、四箇月以上この店に来てないってことだよね。おれ、かなり常連のつもりだったんだけど。おれ、四箇月も、何やってたんだろう?」
「すみません。それも、ぼくにはわかりません」
「そう。そうだよね。おれにもわかんないんだもんね。あんた、このへんのひと?」
「違います」
「じゃ、遠くから来たの? どっから来たの?」
「桃の里です」
「桃の里――知らないなあ。ごめんね」
「いいです。知ってるひとは少ないと思います」
「その桃の里ってとこから、何しに来たの?」

 これは危険な質問だった。まさか、逃亡してるんですと答えるわけにはいかない。それにまた、「別にィ」や「関係ないじゃん」などの巧妙な言葉をあやつって質問をかわす芸当を、ハンスはまだ修得していなかった。すると、残る答えは一つしかなかった。
 嫌々ながら、ハンスは言った。
「ぼく、行方不明の人を捜しに来たのです」
「ふうん。あんたが捜してるひとって、もしかして、おれ?」
「違います」
「だよね。おれのわけないよね」客は残念そうに頷いた、が、まだほんの少し未練がありそうだった。
 だから、ハンスはきっぱりと言った。「ぼくが捜しているのは女の人です」
「ああ。じゃあ、やっぱりおれじゃないんだね。おれね、ときどき自分が迷子になってるような気がするんだ。大人のくせに迷子って言葉はちょっと変だけどね」
「ひとりぼっちなんですか?」
「ううん、それは違う。ちゃんとした家にちゃんとした親兄弟と一緒に暮らしているし、友だちも普通程度には持ってる。でもね、なんだか、迷子になってる気がするんだ、ときどきね」骨抜きイルカは切な気に溜め息を吐いた。「ロスト・チルドレンて映画ね、子どもがいなくなっちゃう話なんだ。迷子っていうニュアンスとはすこし違うけどね。おれ、この映画大好きでさ、もう何べんも見てるんだけど、また見たくなるんだよ、迷子になってる気がすごくするときなんかにね」
「同情します」
「ありがとう。おれさ、こないだまでバンドやってたんだけどさ、後から入ってきたリードヴォーカルがさ、ものすごくわがままなやつでさ、バンド、めちゃくちゃになって解散しちゃってさ、仲間は散り散りになったんだ――ああ、思い出した。おれ、バンド解散してずっと落ち込んでてさ、四箇月も。布団かぶって寝てたんだよ、四箇月も! あぁあ、そいつが入るまで仲良くやってたのになあ、小悪党組っていうすごいマイナーなバンドだったんだけど、知らない? 知らないよね。たまぁにライブとかもやってたんだけど、あぁあ、解散しちゃって、やんなっちゃうなあ」
「その、後から入ったリードなんとかの」
「リードヴォーカル」
「リードヴォーカルのひとは、今どこに?」
「知らない! 知らない! あんなやつ! ユリスって気取った名前だったけど、どうせ本名じゃないさ、そんなの。歌、ヘタなの、そいつ。ちぇっ」

 その時、一個の銃弾が、ハンスの胸に忍び込んだ。
 銃弾というものは、ひどく無粋なものなので、心臓のど真ん中にむっつりと居座った。
 ハンスはきょとんと首を傾け、照れ笑い。
「どうかした?」と骨抜きイルカ。
「すいません、なんだか、ぼく、ちょっと」とハンスはもじもじ。
 雇われ店長・場安がトイレから出て来て、素頓狂な声をあげた。
「あれぇ? まるっちょさん、久しぶりだねえ!」
「まるっちょ?」ハンスは目を丸くして、唐突にカウンターから消えた。
 雇われ店長・場安は、カウンターの中の血溜りに、ハンスが倒れるのを見た。
 骨抜きイルカ・丸塩は、体型に似合わぬ素早さで、自動ドアにすっ飛んだ。
 逃げてゆく男を見た。
 雪のなかを音もなく、しかし、狙撃者らしからぬ不器用さで、こけつまろびつ逃げてゆく。ちぇっ。おのれの頭の中にあるものだけが真実と思い込み、儚い言葉や物語なんかはまるで解さぬ手合い。新入りのバイトを狙ったわけでもない。おそらく「誰でもよかった」などと無味乾燥な供述をする類いの、銃弾よりもずっとずっと無粋な奴。
 骨抜きイルカ・丸塩は、怒りと哀れみを叫びにした。「ちぇっ。ばかやろ」
 雇われ店長・場安は、血溜りにハンスを抱き起こし、幽かな声を聴いたのだった。
「ジョアン、黒犬のジョアンだね? 蛇の目先生が心配しているよ、早く桃の里へお帰り。いや、ジャロメッチ先生だったっけかな」


 ところで、郵便配達員が持ち帰った書き留めには、いつもの越中氏の手紙の代わりに一枚の反古紙が入っていた。ちびたエンピツの殴り書きはもちろん塚本ヤスエの筆跡。

 〈あんたはかなりよくやった。もういいよ。もういいから帰っておいで。ユリスはあたし! あたしがユリス! ユリスは桃の里にいる!〉


(了)

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